奈良〜平安時代前期
この頃、すでに高賀山に惹かれて集まった多くの修験者によって、高賀神社には国常立尊ほか二十数柱の神が祭られ、天神七代地神三代の神のほか、古事記、日本書紀に登場する神々が信仰の対象となっていました。
神像
現在、文化財収蔵庫には15体の神像が納められていますが、その内男神像4体、女神像10体はほぼ同じ大きさでヒノキ材による一木造り、神像の表面はすべて彩色仕上げといった共通点を持っています。
男神像は落ち着いた威厳を、女神像はおおらかな気分をたたえています。
制作時期は12世紀半ば頃と考えられ、平安時代のまとまった神像群として大変貴重なものです。
平安時代中期〜後期
この頃には、白山信仰の影響が色濃くなって十一面観音(白山比盗_)を本地仏と定めた十一面観音信仰が盛んとなります。<下線文言の説明は下記に記述があります>
さらに、10世紀中ごろになると、大日如来<密教>も本地仏として混在して祀られるようになります。
また牛頭天王信仰も、このころ流入し祀られました。
後に虚空蔵菩薩信仰が入ってきて本尊とされると、本殿に虚空蔵菩薩を安置し、本地堂には大日如来と十一面観音が祀られていたと思われます。
本地仏
本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)による仏のあり様をいいます。
本地垂迹説
仏教が隆盛した時代(奈良時代以降)に成立した神仏混合思想の一つで、日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする考え。「権」とは「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形をとって「現れた」ことを意味し、「垂迹」とは神仏が現れることを言います。
【十一面観音信仰】
十一面観音の起源はバラモン教の神で天候や雨水を支配し、十一の顔を持つシバ神とも言われています。我が国には飛鳥時代に伝来し、平安時代初期には大きな信仰の輪を広げていきました。
高賀神社においても、白山信仰の影響から、十一面観音信仰が入って来ました。「水分」(みくまり)の山である高賀山は、古代より恵みの雨をもたらし五穀豊穣を叶えてくれる神の山として崇められて来たため、十一面観音信仰が自然に高賀の郷に受け入れられたのでしょう。
【牛頭天王信仰】
高賀山麓にある六社中、牛頭天王をお祀りしているのは高賀神社だけで,かなり早い時期(10世紀頃)に、牛頭天王信仰がこの地に伝わったと思われます。
牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神です。中国を経て日本に伝わる間に信仰の内容が大きく変わったと考えられ、仏教では薬師如来の化身とされています。神道では、「素盞鳴尊」と同体化して疫病から守ってくれる神として広まっていきました。古代より、疫病(天然痘、コレラ、結核等)は人々苦しめ、目に見えぬ悪魔の仕業として恐れられていました。その疫病を退散させてくれるありがたい神様が、牛頭天王です。 【写真:高賀の牛頭天王社】
【密教の流入】
平安時代の中頃には密教が高賀の郷に入ってきており、高賀神社の大日堂の中央に、密教の中心仏である大日如来座像が安置されていました。
平安期の胎蔵界大日如来像は全国にも数が少なく、京都・醍醐寺、東寺、広隆寺、静岡・光禅寺、滋賀・向源寺、大阪・興善寺などであり、高賀神社の大日如来座像の存在は、高賀山信仰が本格的な密教寺院を基盤として成立していたことを示すものです。
【写真:文化財収蔵庫に安置されている胎蔵界大日如来坐像】
密教
空海が中国で学び、それを日本に伝えたのが真言密教で、「現世肯定」を根本理念とし、世界の中心仏を大日如来としています。空海は教えを広めるため、都に東寺、高野山、に金剛峰寺を建立しており、東寺の名から真言密教を「東密」と言います。また最澄が伝えた天台宗も後に密教化し、これを「台密」と言います。その他に役行者を祖とする教えを「雑密」と言います。
鎌倉時代から南北朝時代
この頃になると、虚空蔵菩薩信仰が盛んとなり、本格的な密教寺院として多く修験者が修行に訪れるようになります。
高賀神社、新宮神社、星宮神社三社とも虚空像菩薩を本地仏とする権現社団が組織されたのもこの頃です。この高賀修験団の全盛期は、鎌倉中期から南北朝時代にかけての約二百年でした。
また、虚空蔵菩薩信仰が隆盛を極めたこの時期、神仏混合を具現するおびただしい数の懸け仏が奉納されました。
室町時代、永正十四(1517)年「高賀宮記録」の追記には「蓮華峯寺、護摩堂、諸堂残らず焼失(6月23日夜)」と記されており、16世紀から17世紀にかけては高賀山信仰もかなり沈滞し、諸堂も荒れ果てた状況が伺われます。
【虚空蔵菩薩信仰】
「智慧」と「福徳」が無限に内蔵されている仏様、それが虚空蔵菩薩です。衆生のありとあらゆる願いを叶えてくれると言うありがたい仏様です。現世利益では記憶力を良くするという事が主で、勉学の仏様として信仰されています。
【写真左:虚空像菩薩像、右:本尊である虚空像菩薩をお祀りしてあった虚空像堂(現在の本殿)】
懸け仏の隆盛
高賀神社には数多くの懸け仏が残されていますが、そのほとんどは明治の廃仏毀釈運動により、仏像が取り外されてしまい保存状態の良いものは数点です。
懸け仏の数は、文化八(1811)年の高賀神社控帳には五百面余と記されていて、「懸け仏」の数の多さはそのまま信仰の厚さを物語っており、おびただしい数の「懸け仏」が蓮華峯寺の壁面に懸けられていたと思われます。
現存する懸け仏の御正躰(懸け仏における本地仏)の明らかな数は次のとおりです。
江戸時代前期
高賀神社、新宮神社、本宮神社、星宮神社とも室町時代中期から衰徴し信仰も山岳密教から、現世利益を願ったものへと変化していきました。
金峰山系の修験道が主流となり、片知の金峰神社、奥板山の瀧神社を含め
六社めぐりが行われるようになりました。
【写真右:この頃整備されたとされる本殿の石垣】
【写真下:江戸時代前期の高賀宮を書いた「高賀権現緒社絵図」】
六社めぐり
高賀山(1224m)を主峰とした高賀山脈には瓢ケ岳(1162m)、今渕ケ岳(1048m)、片知山(966m) と峰々が連なりそれらの山の麓に六つの神社があります。
この六つの社(高賀神社、新宮神社、本宮神社、星宮神社、瀧神社、金峰神社)を尾根伝いに一日で歩いてめぐる苦行のことです。 >> 六社めぐり詳細ページ <<
円空と高賀の郷
円空は、全国行脚をしつつも、中年から晩年にかけて少なくとも三度は高賀神社を訪れて修行をしています。最初は円空40歳の時、寛文十一年(1671年)、二度目は貞享元(1684)年53歳の時、三度目は元禄五(1692)年61歳でした。
円空は高賀の郷での修行を通して、悲願とされていた十二万体の仏像造顕(円空仏)を達成し、その最後の作と言われる「歓喜天像」が高賀神社に所蔵されています。
明治初期
国の神仏分離令による「廃仏毀釈運動」で、大日堂を取り壊し、神社境内にある仏像すべてを1.5キロ下流の観音堂(現在の蓮華峯寺)へ移しました。
廃仏毀釈運動
明治初年に政府は、権現、明神、菩薩など仏教的な神号を廃し、神社から本地仏を取り除き仏具を神社に置くことを禁止しました。
この政策は仏教を廃し、釈迦のすべてを否定して壊す「廃仏毀釈」運動となり、全国に広まりました。
現代
近年は、厄除け、学問、立身出世の神様として篤い信仰を集めています。
昭和四十年代に、蓮華峯寺(観音堂)に納めてあった円空仏が盗難にあい返還されるという事件があったため、高賀神社本殿東に収蔵庫が建設されました(昭和四十八年)。 観音堂に納めてあった仏像は収蔵庫に移され保管されています。
文化財収蔵庫
大日如来座像ほか平安期から室町期にかけての仏像等が保管されています。仏像の多くは高賀山信仰の資料として県の重要文化財に指定されています。
円空記念館(平成七年完成)
文化財収蔵庫に納めてあった円空仏は円空記念館に移され展示されています。
大鳥居(平成九年完成)
高賀宮前橋の前に御影石では完成当時全国一の高さを誇った大鳥居が立てられています。