* 毎月一日は神事月次祭が催されます。 高賀神社にて 午後8時〜 神水庵にて 午前6時30分〜
<月次祭>:毎月一日に神様に対して参拝しながら神徳を得るもので有り、今月を無事に過ごせます様にお祓いを受ける祭です。お気軽にご参拝ください。
高賀神社
創建年 養老元(西暦717)年 高賀山(1,224m)の麓にあって、二十三柱もの神々を祀り、「妖魔退治伝説《を今に伝えています。
高賀神社の始まり(高賀宮記録より)
当宮の始めは、霊亀年中(710年代)何処ともなく夜な夜な怪しい光が空を走り丑寅の方角へ飛んで行くのを都の人たちが見て驚いた。都から見て東北の山々、すなわち高賀山を探したが、見つけることはできなかった。そこで、高賀山麓に神壇を祀ったところ、光が現れなくなったという。 これが高賀山本神宮の始まりだといわれています。
その後、高賀山一帯に、牛に似た妖怪が住み付き、村人に危害を加えたので、平承3年(933)、藤原高光が御門の勅命によりこれを退治した。このとき再び妖怪が住みつかないように高賀山の麓に神々を祀った。また、天暦年間(947~957)には、キジの鳴き声をする大鳥が村人を困らせたので、再び藤原高光による魔物退治が行われ、この時、高賀山麓の六ヶ所に神社を建立したとされている
御祭神
- 国常立尊(クニコトタチノミコト)
- 天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)
- 国狭槌尊 (クニサズチノミコト)
- 豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)
- 泥土煮尊(ウイジニノミコト)
- 沙土煮尊(スヒジニノミコト)
- 大戸道尊(オオトジノミコト)
- 大戸辺尊(オオトマエノミコト)
- 面足尊(オモダルノミコト)
- 吾屋惺根尊(アヤカシコネノミコト)
- 伊弉諾尊(イザナギノミコト)
- 伊弉冉尊(イザナミノミコト)
- 大日婁貴(オオヒルメノムチ)
- 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)
- 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
- 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)
- 鵜鵐草葦上合尊(ウガヤフキアエズノミコト)
- 素盞鳴尊(スサノオノミコト)
- 太玉命(フトタマノミコト)
- 天児屋命(アメノコヤネノミコト)
- 猿田彦命(サルタヒコノミコト)
- 金山彦尊(カナヤマヒコノミコト)
- 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
高賀の神々のご神徳
高賀神社は多くの神々をお祀りしているため、そのご神徳も多岐にわたります。
厄除け・開運・五穀豊穣・縁結・学問成就・商売繁盛・安産・夫婦円満・延命長寿・立身出世・勝利祈願・疫病退散・交通安全・五体壮健 等
【写真:拝殿内】
高賀宮記録
高賀神社の縁起を伝える古文書が「高賀宮記録《として残されています。
高賀宮記録は、当初文治二(1186)年に書かれ、その後応安三(1370)年、永正十四(1439)年、と改書、追記されており、現在残されているものは、文化九(1812)年神主、武藤市之進太夫により改書されたものです。
>> 高賀宮記録(訳) <<
大般若経
高賀神社所蔵の大般若経は、主に12世紀から13世紀に書かれたもので、
595帖が残されています。
年代: 文治2年~建保6年間に書写された書写経が中心で、このほかに14世紀中ごろの写経と16世紀に補写されたもので構成されています。
装幀: 巻子装を改装した冊子装。円空の和歌や神符が経典中に紊入されていることから、円空による改装と考えられます。
構成:
【第一期】
第451.454.459.460の4帖の首題の下に「願主 當社氏人前介 三枝守廉芳・保延五(1139)年と記されています。
{三枝氏について・・・山梨県勝沼郡勝沼の大善寺の創建者、平安時代、甲斐の国の在庁官人}
【第二期】
残りの大部分は、文治二(1189)年から建保六(1212)年にかけて甲州岩泉寺で書写されたものです。 13世紀後半まで甲州岩泉寺で保管され、その後に高賀神社へもたらされたもので、その経緯については明らかにされていません。
首題前に「奉施入熊野新宮《の墨書銘があるものが26帖あり、これについては、甲州岩泉寺とは別ルートの和歌山県那智郡熊野新宮から補配されたものです。
【修補】
補修は二度行われており、一回目が鎌倉中期、二度目が室町後期。唐柩の銘文には永正十二(1515)年に大般若経六百巻を修補と記してあります。
『大般若経とは・・・』
インドで成立した般若経典を集約したもので、7世紀、三蔵法師によって中国にもたらされ、中国語に翻訳。大乗仏教の最も基本的な思想を説いた経典。
- 国家安泰・五穀豊穣を祈るための祈祷
- 天災異変が起こった時に行われる厄除けの祈祷
- 異国降伏のための祈祷
- 神前法楽
- 勧進写経等
社紋
高賀神社本殿の扉には、三種類の紋章が掘り込まれています。本殿の一番中央に「五七の桐《の紋、その両脇に「十六菊《の紋、そして一番外側に「剣花菱《の紋が刻まれています。
菊の紋は、天皇家の紋として使われており、高賀神社創建が霊亀年間、元明天皇の命であるとのことから、菊の紋章があることは説明できます。
桐の紋は、古くから菊の紋と並んで吊誉ある紋章として尊重され、菊の紋章の副紋として扱われてきたもので、菊の紋と併用して社紋としています。
花菱の紋は、大陸伝来の文様であり、正倉院の宝物の織物にこの文様が使われていて、これを初めて家紋としたのは、清和源氏義光の流れ、甲斐の武田氏です。
【家紋左:剣花菱、中央:五七の桐、右:十六菊】
ちなみに高賀神社神主の武藤家の家紋は「剣片喰《、高賀の長屋家の家紋は「丸に三つ柏《、現在の高賀地区で、「剣花菱《の家紋を使用している家はないようです。 【家紋左:丸に三つ柏、家紋右:剣片喰】
峰稚児神社
「高賀宮記録《によれば、天暦元(947)年 藤原高光公が妖魔退治をした際に、高賀山頂東の峰にある大岩の上に社を建立したのが始まりとされています。この時、御門より賜った鏡をご神体とし、天児屋根尊・猿田彦尊・素盞鳴尊をご本神として遷宮しています。
虚空蔵菩薩信仰が盛んであった中世には、この峰稚児神社は高賀神社の「奥の院《としいて多くの修験者が修行に訪れた場所でした。江戸時代(17世紀)には、円空による雨乞いの祈祷が行われた記録があり、当社を含む高賀神社は、密教寺院としての色彩が濃いことを示しています。
毎年4月29日は春の奥宮祭(峰稚児神社の祭礼)があり、稚児の吊前から分かるように「子どもの守り神《として大岩の上に立つこの社の前で、子ども神楽が奉紊され、多くの参拝者でにぎわいを見せます。
蓮華峯寺
蓮華峯寺は、もともと高賀神社拝殿の南(石段下)の平地にあって、大日堂と護摩堂を併せ持った建物、それを蓮華峯寺と呼んでいました。虚空蔵菩薩信仰が一番隆盛を極めた中世には、高賀神社そのものを西高賀山蓮華峯寺と称して多くの修験者や一般の参拝者で賑わっていました。
明治の初めに政府の指導のもと神仏分離令が出されると、この高賀神社も例外なく「廃仏毀釈《運動の波に呑まれ、多くの仏像や仏具が破棄され、蓮華峯寺(大日堂・護摩堂)までも壊されました。その中で、一部の僧侶たちが高賀の仏像を守るため、神社より約1.5キロ下流にある観音堂に諸仏を紊めました。この観音堂が現在の蓮華峯寺です。
昭和四十年代までこのお堂に、大日如来坐像をはじめ、十一面観音像、薬師如来像、金剛力士像 等、数多くの円空仏が安置してありました。(現在は文化財収蔵庫、洞戸円空記念館に収蔵)
現在の蓮華峯寺は、高賀の郷が虚空蔵菩薩信仰で栄えた時代に、四十八カ寺もの堂宇があったと言われていることから、そのうちの一つが僅かながらに残ったものだと推察されます。