瓢ヶ岳 高賀山

 長良川と板取川に挟まれた関市北西部(旧武儀郡西部)と郡上市南西部(旧郡上郡南西部)の境をなしている高賀の山脈には、高賀山(1,224m)を主峰に、瓢ケ岳(1,162m)、今淵ケ岳(1,048m)の山々がそびえる。
高賀山の南の山腹には高賀神社があり、山の背面の北側に本宮神社新宮神社、東側に星宮神社が鎮座する。瓢ケ岳の南の山麓には金峰神社、今淵ケ岳の南山腹には瀧神社がある。この一帯が高賀山信仰地域である。

これらの神社は、中世初期から近世にわたって、高賀権現の名のもとに総括された社団が設立され、仏教道場として繁栄していたと伝えられている。また、近世中期からは「高賀山六社めぐり」という信仰集団が形成され、広い地域にわたって庶民の敬崇を受けたのである。
(「岐阜県史、通史編、中世」より)


六社めぐり地図 高賀神社 高賀神社 (関市洞戸高賀)
霊亀年中(710年代)何処ともなく夜な夜な怪しい光が空を走り丑寅の方角へ飛んで行くのを都の人たちが見て驚いた。 都から見て東北の山々、すなわち高賀山を探したが、見つけることはできなかった。そこで、高賀山麓に神壇を祀ったところ、光が現れなくなったという。
これが高賀神社の始まりだといわれている。その後、瓢ケ岳に牛に似た妖怪が住んでいて、村人に危害を加えたので、天暦二(949)年に藤原高光が勅命によりこれを退治し高賀山麓に神を祀ったという。このとき六ヶ所に神社を開いたとされている。



新宮神社 新宮神社 新宮神社 (郡上市八幡町)
藤原高光の創建で、高賀第二の社殿と言われている。
樹齢数百年の老杉が一面に立ち並び見事な境内地を形づくっている。また、金銅虚空蔵菩薩座像をはじめ247面の懸け仏など多くの文化財を蔵している。



星宮神社 星宮神社 星宮神社 (郡上市美並町)
鎌倉時代から南北朝時代にかけて、白山信仰のひろがりの中で虚空像菩薩を本地仏としてまつるようになった。虚空像菩薩は、明星天子(星信仰)としてまつられるため、星宮神社と称するようになり、その別当寺が粥川寺である。
近世の初めには、円空がここ粥川寺を本寺として全国遊行に出かけている。


瀧神社 瀧神社 瀧神社 (美濃市乙狩)
藤原高光が妖魔を追い求め、高賀から乙狩谷に来た時、山全体が黒雲に包まれて進めなくなったので、神に祈って矢を黒雲の中に射放つと雲が嘘のように無くなったと伝えられ、そこが乙狩の神谷洞と言う地名で残っている。
その夜、高光公は滝の中から現れた神々が、妖魔をこの洞から追い払われる夢をみた。そこで、乙狩谷にある滝のほとりにお宮を建てたのが滝神社のはじまりと言われている。


金峰神社 金峰神社 金峰神社 (美濃市片知)
片知山の麓にある金峰神社は、「高賀宮記録」によれば、瓢ケ岳に住み着いた妖魔を藤原高光が退治に来た時、最初に妖魔の正体を見て、その形を確認した場所とされている。(以後その山を形智山、後に片知山と呼ぶようになった。)
中世の高賀山一帯は、美濃国の霊山として多くの山伏たちが修行に来ており、片知の金峰神社も修験道の影響を受けている。吉野修験の本拠である吉野の金峰神社があるが、ここから名前をとってつけたものと言われている。


本宮神社 本宮神社 (郡上市八幡町)
藤原高光の創建といわれ、別名は巌谷本宮ともいわれている。
鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて隆盛を誇ったが、大洪水による山津波によりことごとく埋没したと言われており、戦国末期、郡上の領主遠藤慶隆が本殿を再興し、現在に至っている。