高賀宮記録 高賀宮 高賀神社大本宮
高賀宮 高賀山若宮大明神
磐座社 高賀山峰児大明神
雲居社 高賀山地蔵嶽大明神
大平社 高賀山福部ケ岳大明神(別所六ケ所)
菅谷社 高賀山矢作大明神  >> 矢作神社のページ
乙狩社 高賀山滝大明神
形智社 高賀山蔵王大明神
粥川社 高賀山星宮大明神
藤谷社 高賀山本宮大明神
岩屋社 高賀山新宮大明神     末社百三十七社也

そもそも当宮の始まりは、霊亀年中より夜な夜な怪しい光が都の上空を飛び交い、人々を驚かしては、北東の方角へ飛び去って行った。
養老元年、御門より都の北東の位置にある山々を捜索するよう藤原家の家臣に命令が出された。藤原家の家臣団は、当山をはじめ、方々の洞、谷を捜索しても怪しい光の出所は解らなかった。数日、当所に留まったがその正体は知れず、そのまま都へ帰ることもできず、当山麓に神壇を設け、国常立尊・国狭槌尊・豊斟淳尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・吾屋惺根尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・大日霊貴・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鵜鵐草葺不合尊・素戔鳴尊・天御中主尊・太玉命を御本神とした。八百万の神を鎮座させ、17日間退魔のご祈祷をしたところ怪しい光は出なくなった。
この山は特別高く、人々は喜んで社を建立したことから、山を高賀山と名付けた。21体のご神体を刻み、その内19体をご本社に鎮座させ大本宮とし、天御中主尊、太玉命を鎮座させて大行事神社とした。
高賀山本神宮 号 大行事神社

第四十四代元正天皇の時、養老二年六月十二日に御遷宮した。
その後第六十代醍醐天皇の代の頃より、またこの山中の北東の方角に妖魔が住み、その様相、鳴き声は牛に似ていて山洞にその声が響きとても恐ろしい獣である。その獣を見た人たちは身の毛も逆立ち、鳴く声を聴けば驚いて胸を苦しめるためこの山に入るものは誰もいない。また、六月に大雪を降らせ、村人は困り果てていた。そので、この妖魔を退治してほしいと御門に願い出たところ、承平三年十一月末、御門より藤原高光公へ軍勢を連れて高賀の地へ妖魔退治に行くよう命令が出された。
高光公一行は高賀山近くに到着して、谷河原で休憩し攻略方法を思案した。笠を積んでこれを神社として万の神々に御祈祷し、その後手分けして方々の山洞に入り込んだ。しかし木々は深く、山々を数日かけて回っても妖魔の居所をつきとめることは困難であった。
高光公は思案した末、 高賀神社の神々のご加護が必要として、勇士十四・五人を連れて神前で七昼夜ご祈祷をした。すると高光公の夢に神のお告げがあった。その内容は、「東の方角に大谷があり、その奥に妖魔が潜んでいる。加勢して討ち取るべし」というものであった。高光公は早速軍勢を集め、政信、忠宗二人の勇士につづく十四・五人を連れて裏山の大谷へ向かった。
高光公一行はこの谷で一人の老人に出会った。老人は「おまえたち、随分疲れておるように見受けるが、ここに来て粥を食べれば勢が付いて飢えることはない。」と話かけた。一行は喜んでその粥をご馳走になった。高光公は、「あなた様は何者なのか」と尋ねたら、老人は「私は善貴星という神です。」と言い消え去った。
その後、山を登って行くと大岩に、髪の毛は赤く、牛のような角を持ち、赤い口を空き目は金色に光る背丈三メートルほどの大鬼が腰掛けていた。高光公は人目見て、妖魔と解り大刀を抜いて「成敗致す」と声をかければ、妖魔は真一文字に飛び交った。高光公が何回となく斬りつけ、流石の妖魔も数カ所の深手を負って逃げた。血痕をたどって岩の角が尖った滝の上へ熊笹を押し分けて上り詰めて妖魔を取り囲み斬りつけとどめを刺した。
高光公一行は、高賀神社へ帰って高賀の神々のご加護で妖魔を射止めることができたことを喜び、無限無上の霊神と讃えて当宮を再建した。また、日の神、月の神、善貴星神の御尊体を刻んで一カ所にお祀りした。大の字を入れて大本神宮、大行事大明神と改号し、
高賀山大本神宮  号高賀山大行事大明神

第六十一代朱雀天皇の時、天慶二年三月十二日に遷宮し、大谷を粥川と改め高光公を粥川院殿と言う。高光公とその家臣もおおいに喜んで都へ帰って行った。
また、この後悪魔が住みさまざまな災いをもらした。悪魔は近江の国へ通い、大群で夏に雪霜を降らせて五穀を枯らしてしまい飢饉の年が続いた。
村人は困り果て、御門に悪魔退治をお願いしたところ、再び藤原高光公が軍勢を引き連れて悪魔退治に高賀の地へ派遣された。到着し、早速手分けして山へ攻め入ったが、何処へ逃げ込んだのか影も形も見あたらない。一旦兵を引き、各洞の入り口を兵で固めた。六、七人が各洞、山に忍び入り聞いた声が雉の鳴き声に似たものであり、その形は見定めることができずまた、山々を飛び周り居場所を特定することもできなかった。
高光公は思案され、すぐに悪魔を追討することは難しい、大勢で長期にわたりここに留まることも困難であるから、二、三十人残しその他の兵はひとまず都へ戻すことにした。
この悪魔退治は、人の力では不可能であり、神々の力を借りなければ討ち取ることは困難と言って、義盛、信武、忠宗、正家、四人の勇士に続く勇敢な武将八、九人を召し連れて当宮へ来て、十七日間神前で悪魔退散の祈祷を行った。祈祷が終わり高賀山に登り、途中に岩屋で休息をとっていると、峠の方で大勢の声が聞こえてきた。この悪魔が住む深い山に人の声がするとは不思議と思い、峠へ向かったら、大岩の上に四人の子供が座っていて、その前に白髪の老人が立っていた。その老人が言うには、「高光らが神々に一生懸命祈願したため、その願いを聞いて、神々が稚児の姿に変えておまえらの目の前に現れたのだ。」「ここに現れたのは、伊弉諾尊、伊弉諾尊、大日霊貴、天児屋根尊ですよ、拝みなさい。」その老人は、「私は虚空蔵菩薩である。」と言い、東の山に池があって、この北の山の上に大岩がありその上に三つ岩を置いて悪魔を封じた。「東の洞から登ってその悪魔を討ちなさい」と言うと姿を消してしまった。
高光一行は、大いに喜んで山を下って東の洞へ周り、十五・六人の武将を連れて東の洞から登り、岩屋で休息をとっているうちに日も陰り夜になった。北風が激しく吹き、雨が降る中、山深い中を登り続け頂上へ登りつめると、風雨も止み東の空に明星が輝き登った。熊笹を押し分け登り、見あげると大岩の上に、白髪の老人が言った封印した石が三つあり、そこからさらに南の方へ廻ってみれば広い野原がありその中に白髪の老人が言った通り池があった。
今度は、神々の御加護があるから、悪魔を討滅することは間違いないと喜んだ。そうしている間に夕暮れになり、北風吹く闇の中神のお告げを待っていた。夜半頃になると光が空に輝き神々が天から降りてきて「高光よ、西の山麓下津岩根の辺りで弓を作り、 南の砥河原で矢を研いで来て、その弓矢で悪魔を射落とし討滅せよ。」とのお告げを聞いた。それで蕪矢、雁股の矢を持って洞や谷を狩り出し、南の山に進んで待ち構えていると、急に山々が震動し周りの谷や洞から神の光が発せられた。八百万の神にも追い立てられた悪魔は眷属ともども空に舞い上がり群れになって大風を起こした。悪魔は一丈あまりの雉の形をした大鳥で、高光公を目がけて舞下るところを蕪矢で射落としたら、悪魔は上へ下へと荒れ狂い、それを討ち留めようと大太刀を抜いて追いまわり、最後に高光公は雁股の矢を持って頭筋を押さえて射止めた。夜も白々と明けてきた。
高光公は岩の上に立って、大きな声で家臣たちに「念願の悪魔を退治することができた。」と話しかけ、「これを見るがいい、神々の御加護でこの悪魔を討ち取ることができた。」それを聞いた家臣らは、悪魔の体めがけて一太刀振るい悪魔の体はズタズタに切りきざまれた。
高光公は北の山を指差し、「あの山の裏にも、以前退治した妖魔の遺骸がある、持ってきて一緒に焼き払え」と言って、義盛、信武、正家ら三人を連れて山を下った。それらの遺骸を一緒に焼き払い天慶九年三月十三日に山は太平となった。
高光公は同月十三日に当宮へ参拝に来られ、十四日から十六日まで御礼のお祀りを行った。高光公は、今までの功績を御門に報告した。後に御門からの使者が来て、高光公の功績に対し御門は「大変喜んでいる、二度と悪魔が住み着かないよう峰と山麓に神社を建立して守護神を祭りなさい。」と、この時高光は、剣と鏡を御門から貰った。高光公は、当宮を始めとして、三所の岳々神社、弓矢の神社、白羽の神社、乙狩の神社、形智の神社、粥川の神社、藤谷の神社、岩屋の神社を創建され、剣を大本宮のご神体に、鏡を峰稚児神社のご神体とし、矢を福部ケ嶽大明神のご神体とした。また、矢を星宮大明神の滝に納めた。御門いただいた剣をご神体として伊弉冉命、伊弉諾尊、大日霊貴を本宮にお祀りし、天神六代地神四代の神と善貴星神ならびに万の神々を鎮座させて高賀宮最上根元神社の名を授かった。
第六十二代村上天皇の時、天暦元年正月二十八日に遷宮。
高賀宮最上之神社 高賀山大本神社 号大行事大明神 

高賀神社の神力で悪魔を討ち倒し、天下太平、五穀豊穣、万民が幸せになった。高光公はこの洞を高賀と名を改めた。また、高賀山最上根元であることからこの宮を高賀宮と言う。次に若宮は、福部ケ岳へ降臨した神が、下津盤根の河原の辺りで弓を作って来るように言われ、この弓をご神体として、甲弓山鬼大王神、月弓の神、八幡大神ご本神として鎮座、この宮を高賀宮弓矢の神社と言う。天暦元年正月二十八日に遷宮。
高賀宮弓矢之神社 号高賀山若宮大明神

峰児はこの大岩に神々が現れ、悪魔を退治し万民に平和をもたらした山であり、そこの大岩に社を建立し、御門よりいただいた鏡をご神体として、天児屋根尊、猿田彦尊、素戔鳴尊をご本神として天暦元年二月十一日に遷宮。
高賀岳盤座之神社 号高賀山峰児大明神

大岳は格別に高いやまであるため、八部より上は雲が棚引くので雲ケ岳と言う。この山は当国、尾張、三河、伊勢の海、西は近江の国まで見渡せる山であるから五穀の神を祀ることとして社を建立した。田、土地を守護し五穀豊穣の神社であることから、地増ケ岳大明神とし太刀をご神体として大己貴尊、受保の神をご本神として五帝龍王神を併せ天暦元年二月十六日に遷宮。
高賀大岳雲居之神社  号高賀山地増ケ岳大明神

福部ケ岳は神々が降臨し、弓矢を高光に与え悪魔を退治し大願を叶え大いに喜んだが故に福部ケ岳と名を改め十三日に山が太平となったことから、太平の神社とし、矢の根をご神体として大己貴尊、月夜見の尊、三女神をご本神として鎮座させ天暦元年三月十三日に遷宮。
高賀岳太平之神社 号高賀山福部ケ岳大明神

南の岳は悪魔を討ち取り焼き払ったことから、骨河原と言う。形智ケ岳は、石三つで悪魔を封じてあり、十二日の夜初めて悪魔の形を見た山であることから形智岳と名を改め、三つの石の神社と言い、天手力男尊、高皇産美尊、神皇産美尊をご本神として鎮座、天暦元年三月十三日に遷宮。
高賀岳三津石之神社 高賀山形智岳大明神

白羽の社は、高光公が山崎権之頭義盛に言うには、福部ケ岳に降り立った神々が申すに、砥河原の辺りに白い鳥の羽根と箭があり、そこで矢を作って高光公に献上せよと、その場所に社を建て高光公持参の矢をご神体として、級長戸辺尊、級長津彦尊、八幡大神をご本神として天暦元年九月十日に遷宮。山崎氏は菅原姓であるが故に菅原谷と命名する。
山崎白羽之神社 号高賀山矢作大明神  

同所手分けの社は高光公がこちらへ向かって来る時に、家臣らの笠を積み神社として神々に祈願され妖魔退治の手分けをされた所であり、そこに社を建立し、猿田彦命、素戔鳴尊をご本神として天暦元年九月十日に遷宮。
手分之神社  号高賀山笠神大明神

乙狩の社は、高光公の夢に、滝の中から神々が出現して来て、この洞に住み残っている悪魔の使いどもを悉く追い払った洞であるため、洞の奥と入り口に社を建立して乙狩の社と言う。奥の社は水罔象世命、瀬織津比当ス、をご本神とし天暦元年三月十九日遷宮。
乙狩之神社 号高賀山滝大明神

同所入り口の社は、両皇大神宮をご本神として同日に遷宮。
乙狩之神社 号高賀山神明宮

形智の社は、高光公がこの洞に数度訪れて、隠れ忍び神々に祈願した所である。またこの山の頂上で大願成就してこの洞に帰って来て、弓を袋に納めた所で社を建立し、蔵王と言う。この上の山で初めて悪魔の正体(形)を見た所であるため、形智の神社と言い天暦元年九月二十日遷宮。ご神体は吾皇御孫命、神直日、大直日神を鎮座。
形智之神社 号高賀山蔵王大明神

同所籠の社は高光公が、二夜三日ここに籠もって、速佐須良比当スをご本神として祈願すると高賀宮は霊験があるからそこで祈願せよとのお告げがあった。それによって悪魔を退治することができ天暦元年九月二十日に遷宮。
形智之神社 号高賀山籠大明神

これより別社、高賀山の裏にある三ケ所の事、善貴星と言う神が出現して高光公一行に粥を与えて元気をつけさせ妖魔を退治したことにより大谷を粥川と改めた。悪魔は高賀宮に恐れをなして裏山に住んでいたので、高光公は弓を星の宮に納めた。神々よりいただいた矢を滝に沈めたため矢納めの渕と言われている。社をここに建立し善貴星神をご本神として天暦元年に遷宮。
粥川之神社 号高賀山星宮大明神

藤谷の社を建立したこの地は、大本神宮の真裏に当たるため本宮と言いそこに神々を鎮座させて
藤谷之神社 号高賀山本宮大明神

岩屋は悪魔が住んでいたため、再び住み着かないよう社を建立し神々を鎮座させて
岩屋之神社 号高賀山新宮大明神

裏の神社には粥川縁起という書があるため概略を記すこととします。
これよりまた、大本神宮のことを記します。高光公に三人の子があり、長男、次男は裏三社(星宮、本宮、新宮)の神主となった。三男は、大本神宮と併せて、峰三所、表三所の神主となり、高賀に住んだ。併せて奈良市郎、山崎権之頭、藤代左右衛門、志水八郎、中野弥兵衛、柏木兵部、山科一角、この七人に藤原姓をもらい神主とした。高光公の意向を受けて三男の若君は上洛し官位を授けられ五位上武藤美濃守と任ぜられ数多くの神宝をもらい受けて来た。その後御門より、再び悪魔が住み着かないように諸仏に祈りなさいと御門直々の作虚空蔵菩薩像とともに聖徳太子作、弘法大師作、行基作、泰澄大師作の仏像を数多く賜った。
父高光公が粥川の神社へ参られた時、美濃守は上記のことについて山科一角を使わして、高光公に報告したところ、高光公より指示があって、村上天皇のご勅作は我が本尊であるから本社に安置しなさい。弘法大師作の文殊菩薩像を峰児神社へ安置し、行基作の大日如来像を本地堂の本尊とし、その他はすべて本地堂にお祀りとなさいとの内容であった。よって本堂の東に本地堂を建立し、天徳三年六月十三日に三カ寺が建立され、諸堂が次々と建てられ七堂伽藍が整い、安和三年御門より本地堂に四字の山号寺号を賜った。
西高賀山 号蓮華峯寺大本宮
六月十三日虚空蔵菩薩のお祭りを始めた。

高賀宮一之末社
高賀山大行事大明神  仁一
粥川院殿藤原高光公を一之末社に相殿として鎮座し、元禄元年正月二十九日高光公のお祭りを始めた。末社次々と建立され三十七カ所となり、御門より公家方に勅宣があり大般若経六百巻写して蓮華峯寺へ納めた。当社諸堂が建立された事が諸国に伝わり、美濃国はもとより、近隣の国からも参拝者が後を絶たず、奉納物が本社、諸堂に満ちあふれる状態であった。近江の国からは岩屋に不動明王を奉納する者もあった。当宮の外六ヶ所の別社も同様に繁栄していた。当宮年々繁栄して神主二十四軒、真言宗の坊四十八ケ寺となり、悪魔払い、五穀豊穣、天下太平、国土安穏、万民安楽を祈願する所となっていった。峰に登って雨乞いをすれば雨が降らないことはなく、このほか、霊験あらたかな事が誠に多い。妖魔の形は、鳴き声は牛に似ており、故に高賀に牛が入る事は出来ず、後の悪魔は鳴き声が雉に似ていて、故に高賀の山には雉が生息していない。希に牛が居たとしても、谷戸に牛戻し橋があってそこで牛を帰してしまう。峰に登って遠鏡で見回すことは神が嫌がるので持って登らぬよう。

神主 武藤 権之守
藤原 信次

文治二年四月改書写者

上記書、応安二年六月二日大洪水で諸堂、神主、悉く流出し高賀宮記録も泥水に沈んで腐ってしまい、翌三年二月に、神主らが立ち会って高賀宮記録を写す。神主十二名の連名。

皇倉  若太夫
皇倉  兵部
武藤 善太夫
本社神主  柏木 右善
武藤 市太夫
志水 八郎太
武藤 左近之進
山科 六太夫
藤原 伊織
若宮神主 山崎 権之太夫
藤代 左太夫
辻 治良太夫

上記神主十二名立ち会い改書写した者

追加書記

上記のとおりに年々当社は繁栄して、神主二十軒、坊四十八ケ寺と成り仏像の寄進も次々とあって仏道が盛んになり、神道は衰退し神主十二軒となり僧は色衣を着て神社をみな権現と称した。仏のみ尊敬して神々を蔑視し、参拝の人々にこの仏は何の御作、この菩薩は何の御作、と言って本社を虚空蔵堂、峰児を文殊堂と呼び、地増ヶ岳を地蔵ヶ岳、福部ヶ岳を褌定ヶ岳、高賀宮を蓮華峯寺、星の宮を粥川寺、本宮寺、新宮寺と呼び、神社の名は呼ばなくなった。神々の御利益が無くなると方々からのお参りも少なくなり、神社の修復もままならず、次々と空寺が出来てきた。神々の怒りが頂点に達し、応安二年六月二日大洪水が出て、山々、谷々が崩れ本地堂を初め末社諸堂、一社一宇も残らず神主の家も寺院も押し流し坊主は一人残らず死亡した。当社の外、六社の神社も同時に悉く流れ、当宮本社若宮は流れず、半流れで神宝の多くは流れてしまい小寺十二坊が残っただけで、これらは無住であるため朽ちて途絶えてしまった。
その後、本社を再建し併せて、蓮華峯寺、護摩堂、三ヶ寺を建立し、神主十二名、僧三名で方々へ流失した諸仏を拾い集めて安置した。若宮の社も大変傷んだため西の方へ移転した。修復の難しい地増ヶ岳、福部ヶ岳、形智ヶ岳は峰児の社に相殿とし勧請した。別所五カ所の神社も悉く流れて後に再建された。矢作神社は再建する人もなく流れ絶えてしまった。若宮神主、山崎権之太夫の正月の夢に汝が来て、白羽之神社を再建せよとのお告げがあり、神主中で相談して菅原谷へ引っ越し再建した。
白羽之神社 高賀山矢作大明神

この神社は権之太夫の元祖、山崎権之守義盛の草創である。元祖の名を失わないようにこのたびも山崎権之守義盛一人の建立と記す。山崎氏の本姓は菅原であるため、祖神天満宮を相殿に勧請した。地名は菅原谷とは恐れおおいとして菅谷と改める。山崎権之太夫は矢作の神主となって菅谷に住んだ。この宮も神宝のほとんどが流れ失せ今は十分の一もなく名ばかりの神社となってしまった。本社も雨漏りによる腐食が激しいため三度目、この書を写す。当宮の盛衰も時代の流れとはいえ悲しい事である。

皇倉 兵部
武藤 善太夫
武藤 市太夫
山科 六太夫
武藤 式部太夫
藤原 伊織
山崎 権之太夫
辻 次良太夫
藤代 左近

永享十一年三月神主九人立ち会い本を書き写し、追加の書を書き記した者

又追加

永正十四年六月二十三日夜大火で、蓮華峯寺、護摩堂、諸堂坊三ヶ寺悉く焼失。同年八月十五日弓矢神の祭りに立ち会ってこれを記す。

再敬記

この書は大般若経の中にあったので久しく見る人が無く、今年の八月中旬より弓矢のお祭りでこれを見れば、高賀宮の記録であった。神社伝来の宝物等を失った事を憂いで今般表紙箱を求めてお宮に奉納した。
この記録、永正十四年大火で本社焼失の後も良く免れ隠れてあった。織田信長公は社領をすべて召し上げた。末社諸堂坊三ヶ寺みな毀れ神主もちりぢりとなって百姓となり、我が分家もみな百姓となった。社が無い故に見る人も無くなっていった。

神主 武藤 市之進太夫  印

文化九年九月吉日

郷間 長谷部氏これを写す。