そう、ここはまさに伝説の里。高賀の郷には数多くの興味深い伝説が残されています。

猿虎蛇伝説

猿虎蛇 ずぅーとむかし、高賀山に魔物がおったと。この魔物、得体が知れないばかりか、たびたび村へ降りてきて、田畑を荒らしたり女子どもを連れ去った。それだけじゃない。こともあろうに、夏の盛りに大雪を降らせた。じっとこらえておった村の衆じゃったが、もう我慢できん。そこで都へ軍勢を出してもらうように頼み込んだ。
しばらくして、御門の命を受けた藤原高光公が、部下をひきつれてやって来た。 けど、高賀は山ん中、山に慣れない武士たちには、とうてい攻めることはできん。「魔物との戦は、きっと長引くに違いない。それには、村人と仲ようして、落ち着いて攻めなくてはいかん。」そう思った高光公は、まず、高賀山の麓にお宮を建て、村人と一緒になって、魔物退治を神に祈り続けた。
そんなある夜、「ふくべ(ひょうたん)の中に動かぬものを討て」と高光公に夢のお告げがあった。さっそく高賀の山続きのふくべヶ岳へ部下を引き連れて登って行った。頂上には沼があり、そのほとりの大きな木にはひょうたんのつるが巻きつき、鈴なりのひょうたんの中に、ひときわ大きいひょうたんがぶら下がっておった。「夢のお告げはこれに違いない。」高光公は、エイッとばかり矢を放した。ギャオー ! 山をゆるがす叫び声。と、そこには、頭が猿、体は虎、しっぽは蛇の死体が横たわっておった。
今でも、菅谷には、高光公がわらじを履き替えたという草鞋が森があるし、矢柄を作ったという矢作神社がある。ふくべヶ岳の麓を流れておる川のほとりには、そのむかし、高光公が村人と一緒に必勝祈願したという六つのお宮が大切に祀られている。 【写真:安政五年に奉納された、藤原高光の猿虎蛇退治絵】

藤原高光公
猿虎蛇 「妖魔退治」の伝説に登場する藤原高光(939〜994)とは、九条右大臣師輔の八男で実在の人物。
天暦二年、十歳で昇殿し、才名高く、侍従、右少将を歴任した。天徳四年(940年)父が死去し、その翌年従五位上に叙せられたが、妻子を捨てて出家。比叡山横川で受戒入道しています。また、歌人として活躍し、三十六人歌仙の一人で、高光を題材とした「多武峯少将物語」(作者不詳)が生まれました。
「かくばかり へがたくみゆる 世中にうらやましくも すめる月かな」
「栄華物語」や「大鏡」などにも記事があります。

※「高賀宮記録」では、承平三年(西暦933年)に御門の命を受けて魔物を退治したとありますが、この年代と、藤原高光の生年を対比すると、生まれる前に高賀の地を訪れたことになり、年代にずれが生じています。

円空さんの杓子

円空さんの杓子 むかし、高賀の郷に、銀九郎という男が住んどったげな。家は貧乏やったが、なかなか気のええ、よう働く男やった。
ある年の冬の夜のこと。銀九郎が、ワラ布団にくるまっておると、戸口をたたく音がしたんや。底冷えする寒さに身震いしながら戸を開けると、粗末な身なりのお坊様が立ってござった。気のええ銀九郎、疲れたお坊様の様子を見ては放ってはおけん。「どっからおんさったかは知らんが、外は寒いに、さあどうぞ、どうぞ。」さっそく囲炉裏で火をたき、底の見えるような米びつをはだけて、お粥を煮てお坊様をもてなした。
つぎの日の朝、お坊様は、何を思ったのか、ずた袋からナタを取り出すと、たき物小屋のつだんだ(短く切った)木の一本で杓子を作った。「修行中の私には、これくらいしかお礼が出来ませんが、これを使ってくだされ。」 そういって、その杓子を銀九郎に渡して旅立って行かれた。
銀九郎は、米びつをさらえてご飯を炊き、もらった杓子でかきまぜた。するとどうや、ご飯が倍に増えたわい。また、その杓子でご飯を盛ると、何ばいでも盛れたんやえな。びっくりこいた銀九郎、宮の禰宜さんに聞きに行った。 「そのお坊様こそ円空様や。あんばようしてやったで、おあたえがあるんや。これからもええことがあるぞよ。」禰宜さんの言うとおり、銀九郎の家は、それから長く栄えたというこっちゃ。
今でも、高賀には「エンクさまのナタ細工」という言葉が残っておる。

三千淵

三千淵 夏になると、キャンプや川遊びでにぎわっておる三千渕は、板取川の上流、木作にある。そのちょっと奥の高賀の郷には、むかし、お宮やお寺が、たんと建ち並んでおった。坊さんの修験の場になっとったもんで、あっちこっちから集まってきて、たいそうな勢いであっそうな。
ところで、比叡山の法師と戦をするほど仏教が嫌いで、お寺や坊さんをまるで目の敵にしておった信長は、「高賀を攻め落とせ!」と命令を出した。 それを知った坊主頭の法連坊、「これはあかん。高賀の郷が滅びてしまう。」と急いで坊さんを集めて話し合ったが、なかなか話がにえ詰まらん。これではらちがあかんとばかり、夜の明ける頃、「お寺や大事な仏様をめちゃくちゃにされてはかなわん。木作まで出て、そこで戦おうぞ。」
三千淵挿絵 と、法連坊を先頭に高賀渓谷を下ったのはいうまでもない。 「いいか、戦いは木作じゃぞ。一人とて高賀に近づけてはならんぞ!」 法連坊の勢いに、気を大きゅうしておった坊さん連中も、信長の軍勢の前にはひとたまりもなく、一人残らず殺されてしまって、木作の渕は血の海になった。渕へ沈められた坊さんの数が三千人。
戦いというものはほんにひどいものじゃのう。そんなことから、この渕のことを三千渕と言うようになったんやと。


高賀宮記録上の妖魔退治

高賀神社の縁起(起こり)を記した「高賀宮記録」には、藤原高光が二回この地に訪れて妖魔退治をしたことになっています。
しかし、ここに記録される妖魔は「さるとらへび」なる妖魔ではなく、最初が、「牛の角を持った大鬼」、二回目が「キジのような鳴き声を発する大鳥」です。では、なぜ「さるとらへび伝説」がこの高賀の地にあるのでしょう。
「さるとらへび」については、平安時代、源頼政が京の都で「鵺(ぬえ)」退治をした伝説があり、その「鵺」はまさに「さるとらへび」と同様に「頭はさる、胴はたぬき、足は虎、尾は蛇」という具合で酷似しています。
高賀の「さるとらへび伝説」は、古文書としては何も残っておらず、口伝によるものです。おそらく江戸時代に都の「鵺退治伝説」がこの地にも広まり、高賀の妖魔退治=「さるとらへび退治」と単純化して、源頼政ではなく、高賀宮記録にある藤原高光がこの妖魔を退治したという話に置き換わって伝えられてきたのではないかと考えられます。

牛戻し橋

牛戻し橋 高賀の郷の入り口には、高賀川に架かる通称「牛戻し橋」という名の小さな橋(谷戸橋)があります。むかしから、この橋より先へは牛を入れてはいけないと言い伝えられていて、今でも牛を入れないようにしているそうです。
なぜ牛を高賀の郷へ入れないのかはいろんな説があるようですが、ひとつには「高賀宮記録」にある「牛角を持つ大鬼」の退治伝説と関連していて牛=妖魔との解釈から高賀の神々が牛を嫌ったためとも伝えられています。