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montas
投稿日時 2010-9-19 21:28 | 最終変更
私も楽しみながら聴かせていただきました。近世の臨済宗と切っても切れない歴史が洞戸にあったとは感激です。
洞戸で育った隠山が長屋家の養子だったことを、山本和尚自身が洞戸にあった梅泉寺の襖の裏張りを読み解いて発見されたという下りは知的好奇心を大いに駆り立てられました。
ただ、仏教用語も多く少々難解だったかな。
もっと皆さんに禅についても知ってもらえれば、より興味を持ってもらえそうです。 mms-tさんの力もお借りしてもっと洞戸の仏教文化を広めないといけませんね。
でも、今回の和尚の語り口、難解だっただけに、禅問答を聞いてる様で味わいがありました。
その真骨頂と言えたのは、講演後の質疑応答の中で飛び出した「死後の世界はあるのでしょうか?」との質問への反応。
和尚が「いい質問ですね」と言われて、ホワイトボードに更々と書きしたためられたのが
「慧玄(えげん)が這裏(しゃり)に生死なし」の文字。
そして「生と死は同じもので区別するものではないから、死後という観念はない」と言う風におっしゃいました。
細かくは説明されないお応えが、禅問答の様で奥深い。。
私も知らなかったので調べてみたら、これは臨済宗の本山、妙心寺を開いた慧玄禅師(無相大師)が残した禅の本質を説いた有名な言葉でした。
この言葉は、生死の問題に悩み、教えを請いに来た新参僧を慧玄が追い払ったときの言葉とされ、「ここには生も死もないから帰りなさい」という意味で、僧の生死への執着を断ち切ろうとした教えとされています。
生と死をキリスト教やその他多くの宗教の様に二元化して考えない、禅の根源とも言える考え方のようです。
日本人は無宗教とよく言われますが、案外、死後の世界に懐疑的で絶対的な神の存在を受け入れないのは、こうした禅宗のDNAが日本人に受け継がれているからなのかもしれません。
実は私も、由緒ある臨済宗興徳寺の檀家なのですが、禅がこれほどに奥深いものとは。。 お恥かしい限りです。
しかし、得るものが数多あって凄すぎます。 郷土展望講演会
洞戸で育った隠山が長屋家の養子だったことを、山本和尚自身が洞戸にあった梅泉寺の襖の裏張りを読み解いて発見されたという下りは知的好奇心を大いに駆り立てられました。
ただ、仏教用語も多く少々難解だったかな。
もっと皆さんに禅についても知ってもらえれば、より興味を持ってもらえそうです。 mms-tさんの力もお借りしてもっと洞戸の仏教文化を広めないといけませんね。
でも、今回の和尚の語り口、難解だっただけに、禅問答を聞いてる様で味わいがありました。
その真骨頂と言えたのは、講演後の質疑応答の中で飛び出した「死後の世界はあるのでしょうか?」との質問への反応。
和尚が「いい質問ですね」と言われて、ホワイトボードに更々と書きしたためられたのが
「慧玄(えげん)が這裏(しゃり)に生死なし」の文字。
そして「生と死は同じもので区別するものではないから、死後という観念はない」と言う風におっしゃいました。
細かくは説明されないお応えが、禅問答の様で奥深い。。
私も知らなかったので調べてみたら、これは臨済宗の本山、妙心寺を開いた慧玄禅師(無相大師)が残した禅の本質を説いた有名な言葉でした。
この言葉は、生死の問題に悩み、教えを請いに来た新参僧を慧玄が追い払ったときの言葉とされ、「ここには生も死もないから帰りなさい」という意味で、僧の生死への執着を断ち切ろうとした教えとされています。
生と死をキリスト教やその他多くの宗教の様に二元化して考えない、禅の根源とも言える考え方のようです。
日本人は無宗教とよく言われますが、案外、死後の世界に懐疑的で絶対的な神の存在を受け入れないのは、こうした禅宗のDNAが日本人に受け継がれているからなのかもしれません。
実は私も、由緒ある臨済宗興徳寺の檀家なのですが、禅がこれほどに奥深いものとは。。 お恥かしい限りです。
しかし、得るものが数多あって凄すぎます。 郷土展望講演会
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