RSSセンター
メイン | 簡易ヘッドライン |
峰稚児神社 (2007-9-25 21:07:41)
高賀山(1,224m)の頂上付近の大きな岩の上に鎮座しているのが、峰稚児神社です。
後に高賀神社の奥の院として現在に至っています。
社がある大岩の前はには、礎石のような跡があるため、地元の人に話しを聞くと、昔は拝殿のような建物があったらしく、今以上に立派な社殿があったようです。
後に高賀神社の奥の院として現在に至っています。
社がある大岩の前はには、礎石のような跡があるため、地元の人に話しを聞くと、昔は拝殿のような建物があったらしく、今以上に立派な社殿があったようです。
毎年、4月29日は峰稚児神社のお祭りで、子どもの神様としての信仰が篤く、多くの参拝者があります。
また、この日は高賀登山大会も開かれ、山頂付近は参拝者と登山者でにぎわってますよ。
また、この日は高賀登山大会も開かれ、山頂付近は参拝者と登山者でにぎわってますよ。
「高賀宮記録」によると、「峰児はこの大岩に神々が現れ、悪魔を退治し万民に平和をもたらした山であり、
そこの大岩に社を建立し、御門よりいただいた鏡をご祭神として、天児屋根尊、猿田彦尊、素戔鳴尊をご本神
として天暦元年二月十一日に遷宮。 高賀岳盤座之神社 号高賀山峰児大明神」とあります。
そこの大岩に社を建立し、御門よりいただいた鏡をご祭神として、天児屋根尊、猿田彦尊、素戔鳴尊をご本神
として天暦元年二月十一日に遷宮。 高賀岳盤座之神社 号高賀山峰児大明神」とあります。
高賀宮(高賀神社や峰稚児神社)が建立されたとされる8世紀から10世紀のそれ以前については、高賀の山そのものを御神体とする「山体信仰」が中心で、その中に巨石を御神体とする「巨石信仰」がありました。この峰稚児神社の立っている「盤座」も高賀の峰にある巨石であることから、高賀山信仰の象徴とも言うべき御神体として崇められてきたと考えられます。
旧来の巨石信仰を否定するかのように、その盤座の上にお社を建立し、そのご祭神として「天児屋根尊」(あまのこやねのみこと)をお祀りしたことから考えられることは、天児屋根尊とは、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)の祖神であるため、藤原氏の祖神を高賀山の山頂付近にお祀りしたことになります。
平安時代前期は、藤原氏の全盛期であり、日本の東国を除くすべての地域で反藤原勢力(鬼)を一掃して行った時期でもあるため、ここ高賀山一帯にも何らかの独自勢力があって、それを屈服させるために、都から藤原氏の武士団が来て反対勢力を服従させていったと考えられます。
''' 「高賀宮記録」の中からの抜粋 '''
:大岩の上に四人の子供が座っていて、その前に白髪の老人が立っていた。その老人が言うには、「高光らが神々に一生懸命祈願したため、その願いを聞いて、神々が稚児の姿に変えておまえたちの目の前に現れたのだ。」「ここに現れたのは、伊弉諾尊、伊弉諾尊、大日霊貴、天児屋根尊ですよ、拝みない。」その老人は、「私は虚空蔵菩薩である。」と言い、東の山に池があって、この北の山の上に大岩がありその上に三つ岩を置いて悪魔を封じた。「東の洞から登ってその悪魔を討ちなさい」と言うと姿を消してしまった。
:大岩の上に四人の子供が座っていて、その前に白髪の老人が立っていた。その老人が言うには、「高光らが神々に一生懸命祈願したため、その願いを聞いて、神々が稚児の姿に変えておまえたちの目の前に現れたのだ。」「ここに現れたのは、伊弉諾尊、伊弉諾尊、大日霊貴、天児屋根尊ですよ、拝みない。」その老人は、「私は虚空蔵菩薩である。」と言い、東の山に池があって、この北の山の上に大岩がありその上に三つ岩を置いて悪魔を封じた。「東の洞から登ってその悪魔を討ちなさい」と言うと姿を消してしまった。
現在この神社は、子供の守り神として多く人々が参拝に訪れますが、古来「稚児」「子供」を意味するものは、[邪気、鬼を追い払う力を持った者]を意味しています。
「高賀宮記録」の中でも神が子供の姿に変わって高光の前に現れ、魔物退治の手助けをしています。また、おとぎ話の''' 「桃太郎」
'''や''' 「一寸法師」 '''は何れも子供と老人が出てきて、''' 「鬼」
'''を退治する物語です。その点ではまさに、「高賀宮記録」に出てくる登場人物も、「魔物」を退治する武将とそれを手助けする''' 「子供」
'''(姿を変えて降臨した神)そして、善喜星神(虚空蔵菩薩)と称する''' 「老人」
'''と言うように同じ構成になっています。
本来、峰稚児神社は、子供の守り神というよりも、「鬼」つまり反藤原勢力を平定した象徴として祀れたものと解するのが自然であると思われます。
execution time : 0.132 sec