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小坂・天神神社 (2008-3-18 21:22:04)
創建は承応四(1655)年とされており、地元、吉岡勘十郎の勧請によるものと記されています。(旧洞戸村誌)
''' 祭神 菅原道真 '''
☆五輪塔・・・苔むした、古そうなものてした。
なんでも、明治初めの廃物希釈運動の時、ここにあった仏教系
の物と一緒にこの五輪塔も板取川へ投げ込まれたそうです。
後に、それを地元の人が拾い上げ、また神社の境内へ戻したと
なんでも、明治初めの廃物希釈運動の時、ここにあった仏教系
の物と一緒にこの五輪塔も板取川へ投げ込まれたそうです。
後に、それを地元の人が拾い上げ、また神社の境内へ戻したと
の話が残されています。
☆参道の途中にあった小宮と「八幡神社」と刻まれた石碑
この神社のある場所は、洞戸小坂地区と武芸川地区、美濃市との境にの小高い山にあって、前方には板取川があり、川沿いに牧谷街道と寺尾坂からの街道が合流する地点にあります。
''' 場所:関市洞戸小坂 '''
その昔、南北朝騒乱の時代、武儀地域(山口の郷)を納めていた佐竹義基は、北朝方(足利)に味方し、建武四(1337)年四月に南朝方と''' 小坂城
'''付近で合戦をしたと言われています。
【抜 粋】
軍中状の内容は、・・・・「建武四年三月十五日、於、武義口致散々合戦、対治御敵畢・・
・・・四月二日令発間、''' 小坂城 '''戸口致散々合戦、即渡河命対治御敵畢、同日馳''' 菅谷・柿野
、致戦功焼払城郭 '''等・・・・・
・・・建武四年四月七日 源(佐竹)義基
軍中状の内容は、・・・・「建武四年三月十五日、於、武義口致散々合戦、対治御敵畢・・
・・・四月二日令発間、''' 小坂城 '''戸口致散々合戦、即渡河命対治御敵畢、同日馳''' 菅谷・柿野
、致戦功焼払城郭 '''等・・・・・
・・・建武四年四月七日 源(佐竹)義基
想像するに、今の''' 天神神社 '''のある場所あたりに、南朝方の''' 小坂城(砦)
'''があったよう で、そこで、北朝方佐竹軍と南朝軍との交戦があったことが記されています。
さらに板取川を渡って進軍し、洞戸菅谷・その北に位置する旧美山町柿野地区に進軍し、この時城郭を焼き払ったとあります。
つまり、この天神神社のできる以前は、小坂城があったことが想像できます。
城といっても、天守があるわけでもなく、砦、柵といった規模のもので、当時''' 越前街道(板取から福井へ抜ける道) '''への押さえとしての、軍事上の要地であったようです。
城といっても、天守があるわけでもなく、砦、柵といった規模のもので、当時''' 越前街道(板取から福井へ抜ける道) '''への押さえとしての、軍事上の要地であったようです。
今は、ひっそりと小さな社があるだけの場所ですが、650年も昔には、戦略上の一拠点として、歴史に名を留めています。
本殿の裏手へ回ると、鬱蒼と茂った木々の間から眼下に''' 板取川 '''が見えます。
川面は青く澄んでいて、気持ちいい景色です。
川面は青く澄んでいて、気持ちいい景色です。
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