RSSセンター
メイン | 簡易ヘッドライン |
大御堂寺 (2015-6-1 23:02:33)
div class_='wiki'h3a name='section-1'/a野間大坊・・源義朝 所縁の寺/h3
/divbr /
br /
div class_='wiki'img src=http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-47-24/go003322/folder/807573/10/41638610/img_0_m?1433167954 width=560
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 1 class_=popup_img_640_428 本堂 br /
/divbr /
br /
div class_='wiki'div class_='indent'
br /
学生時代の友人たちと、年に一回の一泊小旅行に、知多半島まで行ってきました。br /
br /
/div
以前までこの旅行では、神社やお寺など史跡という場所には絶対寄らなかったのbr /
/divbr /
div class_='wiki'ですが、ここ数年、こんな年をとったせいか、神社仏閣に参拝することに、何の抵抗br /
/divbr /
div class_='wiki'も無いような感じになってきています。br /
/divbr /
br /
div class_='wiki' 今回アップするのは、鶴林山 大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)br /
/divbr /
div class_='wiki'(通称:野間大坊(のまだいぼう)といいます。 br /
/divbr /
br /
br /
div class_='wiki'お寺の歴史は古く、天武天皇(673〜686)の時代に『阿弥陀寺』として建立しました。br /
/divbr /
div class_='wiki'div class_='indent'
その後この『阿弥陀寺』を聖武天皇(723〜749)の時、行基菩薩が中興します。br /
br /
/div
承歴年間(1077〜1081)に白河天皇の勅願寺として、『大御堂寺』と称されました。br /
/divbr /
div class_='wiki'div class_='indent'
b◇本堂 /bbr /
/div
現在の建物は3度の火災等にあい、宝暦4年(1754)に鎌倉様式で再建されたbr /
ものです。br /
/divbr /
br /
br /
br /
div class_='wiki'img src=http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-47-24/go003322/folder/807573/10/41638610/img_1_m?1433167954 width=560
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 2 class_=popup_img_640_428 br /
/divbr /
div class_='wiki'b ◇源義朝・・・頼朝の父 /bbr /
div class_='indent'
平安時代末期、平治の乱で平清盛に敗れた「源義朝」が家臣を頼って、知多半島の野間にやってきた。 br /
br /
その家臣(長田忠致(おさだただむね)・景致(かげむね))の裏切りにあい、義朝公はこの地、野間で暗殺されてしまいました。br /
br /
義朝公のお墓や、義朝公の御首を洗ったとされる「血の池」等の史跡が境内に多数あります。 br /
br /
br /
/div
この時代、親子、親族関係なく敵味方に分かれて戦っていて、その歴史の縮図ともbr /
いうべき場所が、ここ「野間大坊」のようですね。br /
/divbr /
br /
br /
br /
br /
div class_='wiki'img src=http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-47-24/go003322/folder/807573/10/41638610/img_2_m?1433167954 alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 3
class_=popup_img_350_522 br /
/divbr /
div class_='wiki'b ◇鐘楼 /bbr /
/divbr /
div class_='wiki'div class_='indent'
この大きな鐘楼の中にある釣鐘は、建長2年(1250)、鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣にbr /
br /
/div
よって寄進されたもので、尾張地方最古の梵鐘といわれていて、国の指定重要文化財br /
/divbr /
div class_='wiki'となっています。br /
/divbr /
br /
br /
div class_='wiki'img src=http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-47-24/go003322/folder/807573/10/41638610/img_3_m?1433167954 width=560
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 4 class_=popup_img_640_428 br /
/divbr /
div class_='wiki'b ◇木造阿弥陀如来坐像 /b 県指定文化財br /
/divbr /
div class_='wiki'div class_='indent'
大御堂寺本堂の御本尊として安置されています。br /
br /
保存状態も良く、藤原時代後期の県下有数の阿弥陀如来像です。br /
br /
/div
( 向って左から、勢至菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩)br /
/divbr /
br /
br /
div class_='wiki'img src=http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-47-24/go003322/folder/807573/10/41638610/img_4_m?1433167954 width=560
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 5 class_=popup_img_640_428 砂ふみ2br /
/divbr /
div class_='wiki'b ◇大御堂客殿 /bbr /
/divbr /
div class_='wiki'div class_='indent'
客殿の庭には、お砂踏み霊場があって、(本四国八十八カ所の砂(土)が持ち込まれていている)、ここを歩くことで、八十八箇所全てを巡礼したこととなるそうで、とてもありがたい場所です。br
/
br /
br /
/div
img src=http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-47-24/go003322/folder/807573/10/41638610/img_5_m?1433167954 width=560 alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 6
class_=popup_img_640_428 砂ふみbr /
/divbr /
br /
br /
div class_='wiki' br /
○私の地元洞戸には、小字名に「野間」という場所があり、そこに纏わるちょっとした 伝説があるのですよ。br /
/divbr /
br /
div
class_='wiki' 源義朝の家臣で「渋谷金王丸」という武将が、主君の死後命からがら美浜の野間から美濃の山奥、洞戸の似金村(現在の高見地区)に逃げて隠れ住んでいたという言い伝えがあります。br
/
/divbr /
div
class_='wiki' その渋谷金王丸に対し、地元の村人たちは、食糧や住処の提供をして、彼が武将として立ち直り京へ向けて出立するまで面倒をみていたと言われています。 br
/
/divbr /
div class_='wiki' それで、渋谷金王丸が居た場所をb 渋谷洞 /b、彼をかくまった小山氏は、美浜の野間の出とのことから、小山氏宅周辺をb 「野間」
/bと言うようになったと伝えられています。br /
/divbr /
br /
div class_='wiki' 「渋谷金王丸」: 東京都渋谷区には、彼をお祭りした金王八幡宮があります。br /
/divbr /
div class_='wiki' br /
img src=http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-47-24/go003322/folder/807573/10/41638610/img_6_m?1433167954 width=560 alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 7
class_=popup_img_640_428 br /
/divbr /
div class_='wiki'div class_='indent'
野間大坊から美浜の海岸へは直ぐの距離。br /
br /
山育ちの私にとっては、青い海と白い砂浜は憧れの場所です。 br /
/div
/div
execution time : 0.100 sec