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高賀虚空蔵菩薩信仰の勃興とその背景 (2015-2-21 23:24:45)
div class_='wiki'h3a name='section-1'/a鎌倉時代、なぜ高賀虚空蔵菩薩信仰が隆盛を極めたのか ?/h3
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class_='wiki' 高賀山信仰については、岐阜県史で詳しく解説されていますが、白山信仰との関係や、虚空蔵菩薩信仰流入の経緯等、解明出来きれていない部分があり、謎の多い山岳信仰と言っていいと思います。br
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そもそも、修験者が中心の山岳信仰には、書き記した書物が非常に少なく、修験者の修行じたい、山中深い俗世間と隔離されたところで行われてきたため不明な部分も多く、歴史の中に埋もれてしまっているのです。br
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そんな、高賀山信仰の歴史やその背景を、少ない資料から、私なりに考察したものを記してみます。br /
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div class_='wiki'h2a name='section-2'/a理由その1 : 白山長滝寺の焼失による裏禅定道の繁栄/h2
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div class_='wiki' 白山信仰の美濃国側登り口の拠点で、通称「美濃馬場」と呼ばれていたのが、郡上市白鳥町にある白山長滝寺。br /
長滝寺は多くの僧坊を持ち、「山に千人、麓に千人」と言われるほどの信者が美濃、尾張、三河・伊勢方面から訪れた場所である。br /
この白山信仰の拠点が火災に合い(1272年11月)、十四の堂宇が全焼、その後復興するまでに66年の歳月を費やしている。br /
この時、白山長滝禅定道が機能不全を起こし、美濃馬場の代わりを果たしたのが、高賀山麓で虚空蔵菩薩信仰を中心に修験者が行きかっていた、蓮華峯寺、新宮、本宮、粥川寺、滝神社、金峰神社といった、後に「高賀六社めぐり」が行われるようになった、神宮寺らである。br
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これらの宮を拠点として、修験者らは「裏禅定道」と言われるルート(高賀・板取・滝波山・石徹白・別山・・)で白山の登頂を目指す者が増えた。このことが、高賀山一帯の虚空蔵菩薩信仰が隆盛を極めた一つの要因と考えられる。br
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▲白山長滝寺br /
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▲長滝寺の大伽藍br /
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▲虚空蔵菩薩坐像(高賀神社 虚空蔵堂 本尊)br /
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div class_='wiki'h2a name='section-3'/a理由その2 : 醍醐寺沙門の高賀修験への流入/h2
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div class_='wiki'b ■醍醐寺と後醍醐天皇 /bbr /
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京都伏見にある醍醐寺、この寺は、修験道を体系化した理源大師聖宝 (りげんたいししょうぼう) が開き、 後に、修験道当山派の総本山になる寺院である。br /
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後醍醐天皇の影にあって、各地の修験者を後醍醐天皇方へ引き込むよう画策したのが醍醐寺の座主文観。 br /
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その文観の人脈と醍醐寺の寺縁によって、全国の修験系の寺院が、鎌倉幕府倒幕運動に加わり、これが宮方(南朝)を支える基盤となったことはあまり知られていない事実である。br
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建武の新政が僅か数年で行き詰ると、足利尊氏が京の都に北朝を建て、後醍醐天皇は、都から吉野に逃れ、そこで南朝を宣言しここに南北朝時代の到来となる。br /
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この時、京の都にある醍醐寺の修験者らは、都を逃れ、地方の修験系寺院に分散して南朝方を支えていくこととなり、高賀の宮にも多分に漏れず、醍醐寺沙門が押し寄せたと考えるのが自然だと言える。br
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img src=http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-47-24/go003322/folder/1291522/75/41448275/img_3_m?1424528978 alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 4
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▲当山派修験者の拠点てなっていた醍醐寺br /
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div class_='wiki'b ■高賀修験と南朝との繋がり /bbr /
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修験者が、当時の都の情報を高賀の修験者に伝えたとみられる文言が、郡上市那比の新宮神社の大般若経の奥書に書き残されている。br /
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div class_='quote'大般若経の第581巻の奥書(正慶二年)には、次の内容が綴られている。br /
「正慶二年之二月三日未時許、書写畢、楠木正成於金剛山構城郭、応党宮御軍之最中成り」 br /
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この内容は、正慶二年(元弘元年・1331年)二月三日午後二時に大般若経の書写が終ったことを書き記した終りに、楠木正成は金剛山に城を構え、大塔宮(護良親王・・後醍醐天皇の子)は合戦の最中であると書き記している。 br
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これは、当時の情報を伝える役目として、修験者が動いていたのだと想像できるもので、この奥書の文字は、ただ単に風評を添書したものか、或いは、それ以上の意味を込めているのかは議論の余地はあるが、単なる偶然の文字ではないように思われる。br
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▲大般若経の奥書に、南朝との繋がりを思わせる文言が発見された新宮神社br /
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大塔宮は、元弘二年(1332年)十月に吉野で挙兵してからは、各地の寺社に味方するよう書状を出している。その中には、播磨の大山寺や、紀伊の粉河寺などがあるが、大塔宮の書状は美濃の高賀山も含んでいたと考えられる。br
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class_='wiki' そのころの高賀山一帯は、修験者の道場であり、さらには当時有力な新興宗教集団であったからだと考えます。こうした集団を、大塔宮は陣営に引き入れようと苦心していたはずであり、美濃の高賀修験を見落とすはずもない。br
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この時の情報が、写経の奥書の文字となったと考えられ、高賀の修験者たちは、当時新興の虚空蔵菩薩を信仰とする集団であって、既成の権力とは関係が薄かったため、大塔宮の働きかけも強かったと想像される。br
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▲高賀神社 宝物殿蔵の「懸仏」 br /
(高賀神社には、二百七十面余りの懸仏が残されているが、殆どが明治の廃仏毀釈で破壊されてしまっている。)br /
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class_='wiki' 白山信仰の美濃国側の拠点であった長滝寺の全焼による、「美濃禅定道」の代替として、高賀山を中心とした地域の神社が、言わば「裏禅定道」の拠点として、虚空蔵菩薩信仰を中心に大いに繁栄したと推察される。br
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さらに、建武の新政から南北朝時代にかけて、後醍醐天皇を支援するかたちで、醍醐寺沙門を中心とした修験者らが都を離れ、高賀修験に合流していったことによる、繁栄を上げることができる。br
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以上の二点についてが、13世紀後半から14世紀にかけて、高賀虚空蔵菩薩信仰、高賀修験が繁栄した大きな要因と考えられる。br /
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南北朝時代の終焉(1392年)と丁度同じころ、高賀の虚空蔵菩薩信仰も徐々に廃って来たようで、江戸後期には、最も繁栄を極めた鎌倉後期とは、見る影もない状況に陥っていたと思われる。br
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その状況を打破すべく、高賀、新宮、星宮神社では、虚空蔵菩薩を本尊とし、魔物退治伝説を絡めてそれぞれが共通の縁起書を作成し、「六社めぐり」と称して、往時の繁栄を取り戻そうと画策したものだと考えます。br
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class_='wiki' 「高賀宮記録」が最後に原本を転写されたのが文化九年(1812)であるため、他の縁起書もこの時期に書かれたものと解すれば、「六社めぐり」が盛んになる前に、明治維新を迎えてしまい、廃仏毀釈の波に高賀六社も飲み込まれていく中で、「六社めぐり」も時代の流れに流されてしまったのだと言えます。br
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▲高賀宮記録br /
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