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瑞甲山 乙津寺 (2014-5-11 18:01:24)
div class_='wiki'h3a name='section-1'/a瑞甲山 乙津寺 鏡島弘法/h3
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臨済宗妙心寺派の寺院、通称 鏡島弘法で親しまれているお寺さんです。br /
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伝承によると、738年(天平10年)、行基がこの地に草庵を築いたのが始まりといわれています。br /
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弘仁4年(813)、創建開山である弘法大師空海は、嵯峨天皇の勅命を受けて仏法を広めるため乙津島に来て秘法を尽し、法鏡を龍神に向けると、たちまち蒼海が桑田になったと伝えられていて、この縁によってこの地を鏡島と言い、乙津寺の名称は鎮守乙神(乙津島にいた神の名)に由来しています。br
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div class_='wiki' 当寺に現存する本尊千手観音立像は、平安時代前期にさかのぼる作品で、寺の歴史の古さをうかがわせます。br /
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div class_='wiki' 本堂を囲むようにある石仏は、四国八十八箇所巡りの各く寺院の本尊を石仏として安置してあります。br /
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そのため、乙津寺で、ここの石仏全部をお参りすれば、四国八十八箇所すべてを巡礼したことになるという、わざわざ遠く四国まで行かなくても済む訳ですね。 br /
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乙津寺は長良川流域にあって、たびたび洪水に見舞われ、特に1540年(天文9年)、洪水の被害は甚大なもので、その後鏡島城主石河駿河守光清が再興、臨済宗妙心寺派に改宗しています。br
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class_='wiki' また、1945年(昭和20年)、空襲により建物の殆どが全焼。本尊などの仏像などの重要な物は近くの長良川に運び出され、難を逃れています。1958年(昭和33年)再建され今に至っています。br
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div class_='wiki' 国宝 : 本尊十一面千手観音像、毘沙門天像、韋駄天像があります。br /
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div class_='wiki' この乙津寺、洞戸の興徳寺と深い繋がりがあります。br /
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class_='wiki' それは、1660年(万治3)に大仙庵と言われていた堂庵を、乙津寺 第八世蘭友祖善(らんゆうそぜん)を勧請開山として大仙山 興徳寺を創建しているのです。br
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▲ 興徳寺br /
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なぜ、美濃の山奥の地に、鏡島 乙津寺の蘭友祖善をわざわざ勧請開山として寺院を開創したのか、とても疑問です。br /
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当時の洞戸は、平安、鎌倉時代から盛んであった、高賀山信仰の拠点だったこともあり、宗教的にも、いろんなものが入り込んでくる特異な土地だったように思えます。br /
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それと、物流の拠点でもあったため、経済的にも裕福な商人が多く居て、多様な信仰を取り入れる許容があったとも思われます。br /
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class_='wiki' 江戸時代、弘法大師信仰は洞戸でも盛んで、どこの寺院にも弘法大師をお祀りするようになっていて、この時代、美濃国の大師信仰の拠点が乙津寺であったことが影響しているようです。br
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div class_='wiki'■場 所 岐阜市鏡島 1328br /
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