RSSセンター
メイン | 簡易ヘッドライン |
法久寺とキリシタン (2013-1-5 22:55:47)
div class_='wiki'h3a name='section-1'/a利生山 法久寺 /h3
/divbr /
div class_='wiki'img src=http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/47/24/go003322/folder/147818/img_147818_39699707_0?1357394147 width=560
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 1 class_=popup_img_640_480 br /
/divbr /
br /
div class_='wiki' 寺伝によると、「高賀山護国寺住職 静観法師、嘉禎元年(1235年)br /
八月十五日往生。」とあり、応安二年(1369年)六月二十四日大洪水br /
で多くの寺院が流失してしまったため、その後康暦元年(1379年)岐阜br /
長良にあった天台宗の空き寺に入ったと伝えられています。br /
/divbr /
div class_='wiki' 法久寺という名前は、寛政六年(1794年)蓮如聖人により寺号を給わっbr /
たといわれています。br /
/divbr /
br /
div class_='wiki' つまり、法久寺の前身である「高賀山護国寺」は洞戸の高賀にあって、応安br /
二年の大洪水で流出してしまたため、今の長良の地で後に法久寺と名前を変えbr /
て現在に至っていると解釈することができます。br /
/divbr /
br /
div class_='wiki' しかし、高賀地区には、「高賀山護国寺」がどこにあったのかを確かめる物br /
もなければ、言い伝えも残ってはいません。 ただ、現在通称「蓮華峯寺」とbr /
言っている「観音堂」周辺の平地には、いくつかのお堂があったであろうと推br /
察できる箇所もあるので、もともとその辺りにあった可能性は否定できません。br /
/divbr /
div class_='wiki'img src=http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/47/24/go003322/folder/147818/img_147818_39699707_1?1357394147 width=560
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 2 class_=popup_img_640_480 本殿br /
/divbr /
br /
div class_='wiki'img src=http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/47/24/go003322/folder/147818/img_147818_39699707_2?1357394147
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 3 class_=popup_img_350_226 br /
△門の扉に刻まれた紋章br /
・左は「九条藤」右の紋はあまり見たことがありません「丸、或いは星に一引きbr /
でしょうか?・・」br /
/divbr /
div class_='wiki' ちなみに「九条藤」は、九条家つまりは藤原家に通じる紋で、高賀の魔物退治br /
をした藤原高光の子孫として九条家があります。br /
/divbr /
br /
br /
br /
div class_='wiki' 法久寺は、洞戸から20キロ以上も南に離れた場所にあるのですが、洞戸のbr /
尾倉地区の多くの家が、ここ法久寺(浄土真宗本願寺派)の檀家となっています。br /
/divbr /
div class_='wiki' 洞戸地域には臨済宗妙心寺派の寺院が多くあり、浄土真宗の檀家が固まってbr /
存在するのは尾倉地区だけです。 br /
/divbr /
div class_='wiki' b それには歴史的な訳があるのです。・・ /bbr /
/divbr /
div class_='wiki'div class_='quote' 江戸時代、キリスト教の禁止で、幕府の隠れ切支丹への取り締まりが厳しく行われていた頃、br /
尾倉地区にもキリスト教を信仰する者が居て、多くの民が隠れ切支丹として処刑にされようとbr /
した時、岐阜長良にある法久寺住職宗雲が来て、「尾倉地区の民百姓はすべて我が法久寺の檀br /
家であり、切支丹は一人もいない」と宣言して尾倉地区の人たちを助けたため、以後、この地br /
区に住む者は皆、法久寺の檀家となったとの言い伝えがあるそうです。 br /
:/div
/divbr /
div class_='wiki'img src=http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/47/24/go003322/folder/147818/img_147818_39699707_3?1357394147 width=560
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 4 class_=popup_img_640_480 br /
/divbr /
br /
br /
div class_='wiki' 洞戸という土地は、古くは高賀山信仰で多くの修験者が行き交う場所としてbr /
栄え、近世になると、禅宗(臨済宗)の基礎を作ったとされる白隠や隠山が修br /
行をした場所で、当時、多くの雲水が洞戸の禅寺に修行に訪れていました。そう、br /
あの円空聖人も、洞戸の高賀で多くの円空仏を彫って残しています。br /
/divbr /
div class_='wiki' そんな土地がらですから、宗教・文化に対する民衆のレベルも相当高く、新しbr /
い宗教であるキリスト教へ興味を持つ民衆も少なからず居たと考えるのが妥当だbr /
と思われます。 br /
/divbr /
div class_='wiki'img src=http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/47/24/go003322/folder/147818/img_147818_39699707_4?1357394147
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 5 class_=popup_img_350_262 br /
/divbr /
br /
br /
div class_='wiki'img src=http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/47/24/go003322/folder/147818/img_147818_39699707_5?1357394147
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 6 class_=popup_img_350_466 br /
△ 境内の隅にあった「芭蕉の句碑」です。br /
div class_='indent'
句碑の周りに生えているのが「一つ葉」です。br /
br /
/div
b「夏来ても ただひとつ葉の 一葉哉」 /b 芭蕉 貞享五年・・・有名な句ですよね。br /
/divbr /
div class_='wiki'img src=http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/47/24/go003322/folder/147818/img_147818_39699707_6?1357394147
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 7 class_=popup_img_450_337 br /
/divbr /
div class_='wiki' 法久寺十八代住職慈観法師も、当時流行していた美濃派に属していたようで、この点についbr /
ても、洞戸との共通点があり、当時洞戸でも俳句が盛んで、美濃派の流れをくんだ俳壇br /
「万歳社」が結成され、その活動が戦後しばらく続いていました。br /
/divbr /
br /
div class_='wiki' 法久寺と洞戸の高賀、そして尾倉地区、隠れ切支丹、美濃派の俳句、といったキーワードがbr /
断片的ではあるのですが、少しずつ繋がってきて埋もれた歴史が少しずつ解ってきたようなbr /
気がします。br /
/divbr /
br /
br /
div class_='wiki'■ 場 所:岐阜市長良法久寺町4 br /
/div
execution time : 0.095 sec