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高賀の神々と伝説に秘められた謎 ? (2012-12-22 18:37:11)
div class_='wiki'h3a name='section-1'/a本殿扉に刻まれた紋章・・剣花菱/h3
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div class_='wiki'img src=http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/47/24/go003322/folder/1291522/img_1291522_39663440_0?1356169031
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 1 class_=popup_img_450_337 【本殿扉】br /
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div class_='wiki'h3a name='section-2'/a○剣花菱紋と郡上鷲見氏/h3
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div class_='wiki' 本殿扉には、十六菊の紋と五七桐の紋、そして一番外側には「剣花菱紋」が掘り込まれています。br /
高賀山の麓をぐるりと取り巻くように配置されている星宮神社や新宮神社、本宮神社などは、十六菊br /
の紋と五七桐の紋が社殿の屋根などに記されていますが、剣花菱紋が神社に記されているのは高賀神br /
社だけのようです。br /
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div class_='wiki' 剣花菱紋と高賀神社との関係を調べてみると、中世以降、美濃国郡上の御家人鷲見氏(鷲見氏の家br /
紋は代々丸に剣花菱である。)との関わりが考えられます。br /
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div class_='wiki'img src=http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/47/24/go003322/folder/1291522/img_1291522_39663440_1?1356169031
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 2 class_=popup_img_130_130 【紋】br /
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div class_='wiki' 郡上市那比新宮神社にある大般若経の第581巻の奥書(正慶二年)には、次の内容が綴られていbr /
ます。br /
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div class_='wiki'b 「正慶二年之二月三日未時許、書写畢、楠木正成於金剛山構城郭、応党宮御軍之最中成り」 /bbr /
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div class_='wiki'この内容は、正慶二年(元弘元年・1331年)二月三日午後二時に大般若経の書写が終ったことをbr /
書き記した終りに、楠木正成は金剛山に城を構え、大塔宮(護良親王・・後醍醐天皇の子)は合戦のbr /
最中であると書き記しているのです。この奥書の文字は、ただ単に風評を添書したものか、或いは、br /
それ以上の意味を込めているのかは議論の余地はありますが、単なる偶然の文字ではないように思わbr /
れます。br /
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div class_='wiki' 大塔宮は、元弘二年(1332年)十月に吉野で挙兵してからは、各地の寺社に味方するよう書状br /
を出しています。その中には、播磨の大山寺や、紀伊の粉河寺などがありますが、大塔宮の書状は美br /
濃の高賀山も含んでいたと考えられます。br /
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div class_='wiki' そのころの高賀山一帯は、修験者の道場であり、さらには当時有力な新興宗団であったからです。br /
こうした集団を、大塔宮は陣営に引き入れようと苦心していたはずであり、美濃の高賀修験団を見落br /
とすはずもありません。br /
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この時の情報が、写経の奥書の文字となったと考えられるのです。高賀の修験者たちは、当時新興のbr /
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虚空蔵菩薩を信仰とする集団であって、既成の権力とは関係が薄かったため、大塔宮の働きかけも強br /
かったと想像されます。br /
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div class_='wiki' ここで元弘三年、大塔宮の指令を受けて参戦した御家人が、美濃国郡上北部を本拠とする鷲見藤三br /
郎忠保です。鷲見氏は早くから後醍醐天皇側に味方しており、高賀山の修験者たちとも関係があったbr /
のではないか、その関係を示すものとして、高賀神社本殿の扉に、鷲見氏の家紋である剣花菱があるbr /
としたら、鷲見氏と高賀山の修験者との密接な関係が浮かび上がってくるのだと考えます。br /
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div class_='wiki' ただ、郡上の鷲見氏と高賀山の修験者との関わりを示すものは何も残されておらず、詳細は不明、br /
鷲見氏は建武の中興後、美濃の守護土岐家の傘下に入っており、土岐家は足利方であったため、北朝br /
方の軍勢として延元元年(1366)京都へ出陣しています。br /
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div class_='wiki' その後、鷲見氏の動きを見ると同じく郡上の東氏と組んで、南朝側の尾崎宮と関、旧武儀郡、長良br /
あたりで交戦し、尾崎宮(高倉天皇の玄孫)の軍勢を敗退させているのです。大塔宮(南朝側)に頼br /
られていたはずの高賀の修験者達も、親交のあった鷲見氏と敵対する南朝の尾崎宮に援軍を送ることbr /
も出来ず、歴史が流れてしまったのではないだろうかと考えられるのです。br /
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div class_='wiki' 高賀山を取り巻くようにある高賀六社を見てみると、鷲見氏と近い郡上の本宮、新宮、星宮神社にbr /
は、剣花菱紋はどこにも見えず、郡上と反対側の高賀神社だけに見受けられるのです。br /
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その点については、郡上の中心から南部を納めていたのが東氏、後に遠藤氏といった有力な武将が勢br /
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力を持っていたため、郡上の北辺の地の鷲見氏としては、東氏等の影響力が及んでいない高賀山の西側br /
洞戸にある高賀神社、そして高賀修験者らの関係を構築して、都の情報を確保する拠点としていたのでbr /
はとも考えられます。br /
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div class_='wiki'h3a name='section-3'/a○洞戸の鷲見姓は郡上高鷲がルーツ!/h3
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div class_='wiki' 現在、高賀地区に鷲見姓はないが、洞戸地区には何件かの同姓があり、家紋は丸に剣花菱です。br /
その鷲見家は藤原北家の祖である藤原房前をルーツとしている。br /
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div class_='wiki' そして鷲見家は、昔高賀にあったと伝えられていて、現在は美濃市乙狩にある大洞山金谷寺br /
(臨在宗妙心寺派)の檀家であるということから洞戸に残る鷲見家は、その昔郡上の高鷲から渡っbr /
てきた鷲見氏の系統であると思われます。br /
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div class_='wiki'h3a name='section-4'/a○高賀に移り住んだ鷲見氏の目的は・・・/h3
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div class_='wiki' それでは、鷲見氏がいつ頃高賀の郷に入り込んできたかと考えると、南北朝の時代、鷲見忠保、あbr /
るいはその子鷲見禅峰(干保)の頃ではと推察されます。br /
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div class_='wiki' ちなみに、鷲見氏の最も活躍した時期が南北朝時代で、それは忠保、忠保の子禅峰のころ、その内br /
容は、観応三年(1352)、禅峰は尾張大山寺合戦に功を立て、同年熱田宮口の合戦にも奮闘している。br /
また、文和元年(1352)伊勢国に従軍し、阿波坂・同中村口の合戦で戦功を立てている。br /
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div class_='wiki' さらに、美濃国守護土岐頼康の死後、世継問題で一族の間に争いが起こった時に、幕府は、鷲見禅峰br /
に土岐家の養子土岐康行を討たせています。br /
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鷲見氏の活躍は、美濃国内ばかりか、尾張、伊勢の国にも及んでおり、郡上の最北端に根拠地を持つbr /
一守護が、それだけ広範囲に活躍できた背景には、郡上意外の地各所にそれなりの拠点が必要であったbr /
と考えられます。br /
南北朝時代、その拠点の一つが、高賀の宮とそこを本拠として当時一代勢力を誇っていた高賀修験者br /
団であったことは間違えないと言えます。br /
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div class_='wiki'そして、鷲見氏はさらに勢力を美濃国南部に広げていきます。鷲見美作守保重は、鷲見氏の菩提寺とbr /
して、岐阜市山県北野にあった天台宗の寺を、雲黄山大智寺(臨在宗妙心寺派)として明応9年br /
(1,500年)に再建し、鷲見氏の新たな拠点としています。その後、保重は美濃国守護代斎藤氏とのbr /
関係が悪化し、永正七年(1510)斎藤利良は北野城に攻め寄せ、保重は敗れて自刃。このとき、殉死br /
者が十三人に及んだと言われています。br /
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div class_='wiki'img src=http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/47/24/go003322/folder/1291522/img_1291522_39663440_2?1356169031
alt=#x0030a4;#x0030e1;#x0030fc;#x0030b8; 3 class_=popup_img_447_297 【鷲見美作守保重が再建した雲黄山大智寺(岐阜市山県北野)】br /
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div class_='wiki' 鷲見氏は最後、斎藤氏との争いで敗北していき、郡上へ落ち延びていくかたちとなって、「武勇にbr /
長けた」と評されてきた鷲見氏の、歴史舞台からの降板を見ることとなります。br /
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div class_='wiki' 郡上高鷲の鷲見氏一族が、中央勢力と関わって美濃国で勢力を張っていく手段として、高賀の宮と、br /
その修験者たちが巻き込まれていったのではと考えられ、その唯一の証として、高賀神社本殿扉に刻br /
まれた家紋、「剣花菱紋」が残っているのだと言えるのです。br /
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