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清龍山 長水寺 (2011-5-20 22:22:16)
臨済宗妙心寺派のお寺で、板取の田口城主、長屋信濃守の菩提寺です。
このお寺には、天正年間(織田信長の時代)、今から約450年ほど前に描かれた、長屋信濃守の肖像画の軸
があると聞いています。
◇山門の脇にあった鬼瓦
◇長屋氏の家紋「立ちおもだか」
◇長屋氏について
長屋家は、相模国から美濃国に来住し、本巣郡長屋に本拠を置いた。ついで、不破郡垂井に移住したと伝えられている。以後、代々垂井に住したて美濃守護土岐氏に属していた。
長屋景元は土岐政頼に仕え、明応四年(1495)、美濃の応仁の乱と呼ばれる舟田合戦で戦死した。 長屋景教の長男景興は、垂井より赤坂を切り取り揖斐郡相羽城に移った。この頃、長屋氏の知行は二万石余であったという。天文十六年十二月斎藤道三に攻められて、父子ともに滅亡。
長屋景元は土岐政頼に仕え、明応四年(1495)、美濃の応仁の乱と呼ばれる舟田合戦で戦死した。 長屋景教の長男景興は、垂井より赤坂を切り取り揖斐郡相羽城に移った。この頃、長屋氏の知行は二万石余であったという。天文十六年十二月斎藤道三に攻められて、父子ともに滅亡。
景教の弟重景は大野郡更地城主で、天文年間武儀郡に移封され、この長屋氏の菩提寺が板取田口にある清龍山長水寺なのです。
現在の国道256号、県道岐阜白鳥線は、越前国と美濃国の北部を結ぶ街道として往来があった。
そのため、越前から攻め込まれた時の前線基地として城が築かれたもので、その後、文禄三年上有知の鉈尾山に城を構える佐藤方政に攻められ、長屋信濃守は飛騨国増島城に逃れ、金森可重を頼った。このとき、養父の道重は門原村で討死し、
田口城は廃城となってしまった。
そのため、越前から攻め込まれた時の前線基地として城が築かれたもので、その後、文禄三年上有知の鉈尾山に城を構える佐藤方政に攻められ、長屋信濃守は飛騨国増島城に逃れ、金森可重を頼った。このとき、養父の道重は門原村で討死し、
田口城は廃城となってしまった。
◇板取はこの時まだようやく八重桜が散り始め、池の水面をピンクに染めていました。
長水寺の近くで見つけた珍しい花、「クマガイソウ」です。
現物を見たのは初めて、ランの仲間ですが、花のかたちがちょっとユーモラスで、葉っぱも扇を広げたよ
うな特徴のある花です。山野草マニアの乱獲にあい、今や絶滅危惧種のAランクとか。・・・
クマガイソウ、この花は、膨らんだ形の唇弁を、昔の武士が矢避けのために、背中に背負った母衣(ほ
ろ)に見立て、源平の戦いで活躍した熊谷直実(くまがいなおざね)に、にあてたものと言われていま
す。
境内で咲いていた「サラサドウダン」。
普通のドウダンツヅジと違う所は、花が咲き終わって実を付けた時、花は下を向いて咲いているのですが、実になると、上向きになった状態で弾けて細かなタネが飛び出すのだそうです。
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