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瑞應山南泉寺 (2011-2-27 18:56:32)
山県市大桑にある南泉寺へ行って来ました。大桑には親類の家があるのでちょくちょく行くのですが、南泉寺へ行くのは初めて。
臨済宗のお寺で、大桑城主土岐家の菩提寺。 ここ大桑地区は、その昔城下町であったそうで、寺院も数多く、中でも臨済宗の寺院が多いようです。
山門の一階部分の造りがコンクリートで出来て、型ちが大陸風にも思えますね。
▲土岐家所縁の市指定文化財が数多くあるようです。
中でも、白隠の「達磨絵図」があると聞いていましたが、相当なお宝なのでしょうね。
一度本物を見てみたいものです。
中でも、白隠の「達磨絵図」があると聞いていましたが、相当なお宝なのでしょうね。
一度本物を見てみたいものです。
ここ南泉寺は、洞戸とも関係があるのですが、南泉寺十六世樵山道鑑(しょうざんどうかん)(1775
〜1839)は、洞戸の通元寺の長屋家の出身。当時の長屋家は洞戸の豪商で、郡上、美濃、山県方面と広い範囲で商いをしていた家柄、現代の臨済宗の基を作った隠山も洞戸の長屋家に養子に入っており、豪商のとの繋がりが両者にはあったようです。
樵山道鑑の書は、当時の仏教界でも評価が高かったようで、文政二年(1829)京都の臨済宗東福寺の開山五百五十年法要に、2,200人の中から選ばれて宝符を書いたと伝えられているそうです。(洞戸村史より)
▲本堂屋根にあった桔梗の家紋の入った瓦。
桔梗の家紋と言うと、明智光秀を思い浮かべますが、明智氏はその昔、土岐家に仕える家臣であって、信長に仕えるようになってから、美濃の守護代であった土岐家の家紋の桔梗の紋を使用するようになったと聞いています。
土岐家は古くから美濃の守護代として勢力を張っていたようですが、斉藤道三に追い落とされてしまいます。
土岐頼純の画像の讃中には、こんな詩が書かれています。
「始め越烏(えつう)に随って去り、また岐鳳に因って逐わる。仁愛冬日の趙、武威雪夜の裴」若くして越前を去り、のちにまた岐陽の鳳凰によって逐われた不運の人で、ついに若い命を終えたというのです。
岐の鳳とは、斎藤道三のことのようです。
「始め越烏(えつう)に随って去り、また岐鳳に因って逐わる。仁愛冬日の趙、武威雪夜の裴」若くして越前を去り、のちにまた岐陽の鳳凰によって逐われた不運の人で、ついに若い命を終えたというのです。
岐の鳳とは、斎藤道三のことのようです。
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