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feed 白山中居神社 (2010-8-25 23:45:11)

白山中居神社・・・郡上市白鳥町石徹白


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8月のお盆の時期、涼しさを期待しての石徹白行きでしたが、予想に反しての猛暑!
駐車場を降りるなり暑い日差しに迎えられての参拝となりました。


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◆大杉に囲まれた境内・・・さっきまでの暑さがウソのように涼しげな神域に入った感じがしました。

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◆谷川に架かった橋を渡って見えるのが「大宮殿」菊理媛大神を祀っています。


石徹白の地は、私が独身時代にスキーで何度か来た事はあったのですが、神社を訪ねてここまで来たのは初めて。
以前から一度は足を運んでみたかった場所で、それは、一説には、高賀山信仰のルーツとされているのが白山信仰だと言う事、そして、謎に満ちた高賀山信仰の起源の何かが発見出来ないかとの思いもあったからです。

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◆本殿正面より

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◆本殿の扉には、菊の紋章が刻まれていました。


この神社は、霊峰白山の南約10kmに位置し、白山信仰の岐阜県側(美濃国)の拠点として多くの信者や修験者が参拝に訪れた場所です。

昔の人はこういう山道を歩いて参拝したのですから、苦労の分だけ信仰心も厚くなり、神社に到達したときの充実感も、大きかったのではないでしょうか?

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この社の鎮座する石徹白(いとしろ)は、白山頂上と長滝寺との中間地点にあり、白山信仰が隆盛の時代には「白い神の郷」と呼ばれ、古くは天領として、藩政時代には神に仕える村としていずれの藩にも属さず、名字帯刀を許された一種独特な村でした。
明治維新までは住民は社家と社人に別れ、社家は神に仕えることを本職とし、夏は白山参詣の道案内と宿坊を営み、冬は全国各地の信者に御札を配ることを生業としていました。
(「白山文化の里」より)

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◆本殿正面にある「鶉」と「粟の穂」の彫り物・・神社に鶉、ちょっと珍しいですね。


ちなみに、ここ石徹白は、近世臨済禅の中興の祖とも云われる隠山(いんざん)の故郷でもあり、隠山の父 杉本伝右エ門は白山中居神社の神主であったようです。そして、隠山は九歳で高賀山の麓、洞戸の興徳寺へ修行に入っています。
 
白山中居神社と洞戸の高賀神社との共通点として、古代から中世にかけて虚空蔵菩薩信仰が盛んであったと言う事。
  
興味深いのは、石徹白のそれは、奥州藤原氏が寄進した虚空蔵菩薩像が今に伝えられている事です。奥州平泉に拠点を持つ藤原氏は、朝廷(都)の情報収集のため、白山修験団を巻き込み、情報の拠点としていたと考えられています。

当時の修験者は、山々の尾根、谷を自在に歩き、都や地域の情報を寄り早く伝える隠密のような側面をも持っていたと思われます。



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◆縄文時代よりの巨石信仰の跡と思われる「磐境」
 

御祭神:菊理媛神(白山比?神・白山権現)、伊弉諾尊、伊弉冉尊 
境内社:新嘗社(大日霊貴大神 養老年間創立)、皇祖美社(磐長姫大神)、須賀神社(素戔鳴大神)、
地造神社(大巳貴之大神)、道祖神社(猿田彦大神)
由緒:本社の創立は、景行天皇の御宇12年( 82)6月15日、吉備武比古、国家鎮護のために祀られたが創始とされ元正天皇の養老年間、僧泰澄白山を開くため、石徹白に来られて、社殿を修め、社域を拡張されて神仏混交の元を開かれました。明治維新になり神仏分離となり、仏像、中でも奥州藤原氏が寄進したと伝えられる虚空蔵菩薩坐像や、年代の奉納品は大師堂に祀り所蔵されています。

 


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