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隠山と近世洞戸の禅 (2010-7-19 9:36:28)
▲隠山画像
・生まれは郡上市石徹白、白山神社の宮司杉本伝右エ門の子。(1751年〜1814年)
・宝暦9(1759)年、隠山9歳の時、興徳寺の老山(ろうざん)のもとで修行を始める。そして、16歳まで興徳寺で修行をし、その後老山のもとを離れ、岐阜の瑞昌寺、武蔵国永田の宝林寺で修行を重ね、26歳で雲水として諸国暦参の旅に出る。
・30歳で洞戸に戻り、梅泉寺二世住職となる。
・41歳で、梅泉寺の住職を務めながら、当時臨済禅の中興の祖と仰がれていた白隠(はくいん)の禅法を、我山(がざん)より得とくする。
・47歳で梅泉寺を明峰に譲った後、高富の堅相寺、岐阜の瑞龍寺、鶴棲院など多くの寺院を再興し、57歳で光格天皇より紫衣を賜う。翌年には、京都妙心寺開山の関山慧玄(かんざんえげん)450年法要の導師を務める。
・64歳で亡くなった年には、光格天皇より「正灯円照禅師」の勅諡号(ちょくしごう)を賜う。
隠山が修行した寺・・興徳寺
・興徳寺第五世曇霊(どんれい)は当時、臨済禅中興の祖と言われる白隠と並び評せられていた古月(こげつ)の禅法を継いだ。
・隠山の育ての親とも言うべき興徳寺第六世の老山は、雲霊の禅を学びつつ隠山を育て、後に、武藤家の菩提寺である梅泉寺の開山として、興徳寺から梅泉寺へ移る。興徳寺で修行した隠山は、古月や白隠といった近世日本の臨済禅を代表する教えをここ洞戸の地で学んだ。
・寺の起こりは寛延二(1749)年八月、洞戸の豪商、武藤嘉右衛門と、その弟文蔵の二人で、亡き父とその子(武藤家六代目瑞峰宗現上座、俗名紋右衛門とその子、早くして亡くなった梅嶺正香、俗名甚兵衛)の菩提を弔うため寺を建立した。(寺の山号の「瑞宝山」は紋右衛門の戒名から、寺名の「梅」は甚兵衛の戒名の一時を取ってつけられている。)
・勘請開山として興徳寺第五世の曇霊、開山が興徳寺第六世老山で、第二世に興徳寺で修行した隠山が住職を務め、後に隠山は白隠の禅法を継ぐ。
・当時、洞戸の一商人が一代で寺院を建立し、さらにその寺の鎮守として金毘羅神社をも建て商売繁盛を祈願している。
・梅泉寺境内には、全国でも類を見ないほどの型の整った「最勝王経塔」があり、石柱四面にはびっしりと、同塔の建立にまつわる経緯が刻み込まれている。
▲最勝王経塔(本堂跡の裏山に建立)
●整然と並ぶ梅泉寺境内の石仏群の中には、隠山を初めとする歴代和尚が建立した「石写大乗妙法典経塔」が六基あり、これほどまでに石写大乗妙法典経塔が多く残っているのは、全国でも珍しく、洞戸の禅の特徴ともいえる。
石写大乗妙法典経塔:玉石の一つに一字ずつお経を書き、それを埋めて供養、所願成就を祈願したもの。
いずれにしても、全国でも珍しい石像仏が残されていることは、洞戸の豪商武藤嘉右衛門の財力が想像を超えるものであったこと、また、 東西両雄の白隠、古月の禅法
が洞戸の禅寺で合流しており、多くの雲水が修業に訪れていたこと、さらには、 白隠
までもが雲水の時代に、菅谷の保福寺第五世南禅の下で修業をしており、当時の臨済禅をリードする禅文化の発信地が、ここ洞戸であったことを物語るものです。
駿河国原宿(静岡県沼津市原)の出身、名は長沢岩治郎。
十五歳のとき松蔭寺で出家、十九歳より旅に出て修行し、五百年間に一人と言われるほどの高僧となり、後に臨済禅中興の祖と仰がれるようになった。禅画を好み、釈迦、観音、達磨などを描き、現在各所の寺院に多数保存されている。また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和五年(1768年)八十四歳で示寂、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(おくりごう)を、また明治天皇からは正宗国師の諡号を賜った。
十五歳のとき松蔭寺で出家、十九歳より旅に出て修行し、五百年間に一人と言われるほどの高僧となり、後に臨済禅中興の祖と仰がれるようになった。禅画を好み、釈迦、観音、達磨などを描き、現在各所の寺院に多数保存されている。また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和五年(1768年)八十四歳で示寂、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(おくりごう)を、また明治天皇からは正宗国師の諡号を賜った。
▲白隠が修行に訪れた保福寺(関市洞戸菅谷)
九州日向(宮崎県)の出身
「西に古月、東に白隠」、「鎮西の古月、東海の白隠」と言われたほど有名な禅僧。近世臨済禅の双璧として古月、白隠が常に並び評されてきた。
「西に古月、東に白隠」、「鎮西の古月、東海の白隠」と言われたほど有名な禅僧。近世臨済禅の双璧として古月、白隠が常に並び評されてきた。
▲古月が興徳寺の曇霊に与えた「般若窟」(興徳寺蔵)
※ 現在、臨済宗の約六割に当る3,400の寺院が妙心寺派であり、その妙心寺派の教えは、白隠の禅法を継いだ隠山と卓州(たくじゅう・名古屋 総見寺)の二人に受け継がれ、現代に至っています。現在ある妙心寺派の寺院は、隠山、卓州のどちらかの禅法を継いでいるのです。
宝暦元 (1751)年 ・郡上郡石徹白(現在の郡上市白鳥町)で生まれる。
宝暦九 (1759)年 ・興徳寺で修行を始める。(隠山九歳)
明和三 (1766) 年 ・十六歳で老山のもとを離れ、岐阜瑞昌寺の万国和尚のもとで学ぶ。
明和六 (1769) 年 ・十九歳、武蔵国永田の宝林寺、月船禅慧(げっせんぜんえ)のもとで修行
安永五 (1776) 年 ・二十六歳、雲水として諸国歴参の旅に出る。
天明元 (1781)年 ・三十歳で老山の跡を継いで梅泉寺二世となる。
寛政四 (1792)年 ・四十一歳、白隠の法系を継いだ峨山和尚に印証を受ける。
寛政九 (1797)年 ・四十七歳、高富の堅相寺を再建し、梅泉寺を明峰道質(みょうほうどうしつ)譲 る。(隠山の名声を聞き、堅相寺へ集まった雲水は五十名にも及んだ。)
同 年 ・梅龍寺(関市)で講義を行う。
寛政十一(1799)年 ・梅泉寺で講義を行い多くの雲水が集まる。
文化元 (1804)年 ・五十五歳、堅相寺を経岩祇典(きょうがんぎてん)に譲り、播州の松源寺住職となる。
文化三 (1806)年 ・岐阜市瑞龍寺を復興。(参集して修行に励んだ雲水七十人。)
文化四 (1807)年 ・興徳寺で講義を行う。
文化五 (1808)年 ・五十八歳、光格天皇より紫衣を賜う。
文化六 (1809)年 ・妙心寺おいて開山の関山慧玄450年法要の導師を務める。
文化八 (1811)年 ・六十一歳、鶴棲院(岐阜市)を中興。 文化十一(1814)年 ・四月二十九日、六十四歳で示寂。鶴棲院に墓所がある。
同 年 ・光格天皇より「正灯円照禅師」勅諡号(ちょくしごう)を賜う。
▲隠山が再興した瑞龍寺(岐阜市)
宝暦九 (1759)年 ・興徳寺で修行を始める。(隠山九歳)
明和三 (1766) 年 ・十六歳で老山のもとを離れ、岐阜瑞昌寺の万国和尚のもとで学ぶ。
明和六 (1769) 年 ・十九歳、武蔵国永田の宝林寺、月船禅慧(げっせんぜんえ)のもとで修行
安永五 (1776) 年 ・二十六歳、雲水として諸国歴参の旅に出る。
天明元 (1781)年 ・三十歳で老山の跡を継いで梅泉寺二世となる。
寛政四 (1792)年 ・四十一歳、白隠の法系を継いだ峨山和尚に印証を受ける。
寛政九 (1797)年 ・四十七歳、高富の堅相寺を再建し、梅泉寺を明峰道質(みょうほうどうしつ)譲 る。(隠山の名声を聞き、堅相寺へ集まった雲水は五十名にも及んだ。)
同 年 ・梅龍寺(関市)で講義を行う。
寛政十一(1799)年 ・梅泉寺で講義を行い多くの雲水が集まる。
文化元 (1804)年 ・五十五歳、堅相寺を経岩祇典(きょうがんぎてん)に譲り、播州の松源寺住職となる。
文化三 (1806)年 ・岐阜市瑞龍寺を復興。(参集して修行に励んだ雲水七十人。)
文化四 (1807)年 ・興徳寺で講義を行う。
文化五 (1808)年 ・五十八歳、光格天皇より紫衣を賜う。
文化六 (1809)年 ・妙心寺おいて開山の関山慧玄450年法要の導師を務める。
文化八 (1811)年 ・六十一歳、鶴棲院(岐阜市)を中興。 文化十一(1814)年 ・四月二十九日、六十四歳で示寂。鶴棲院に墓所がある。
同 年 ・光格天皇より「正灯円照禅師」勅諡号(ちょくしごう)を賜う。
▲隠山が再興した瑞龍寺(岐阜市)
▲隠山の墓所がある鶴棲院(岐阜市)
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