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瀧神社と瀧権現 (2009-5-24 0:43:38)
高賀山の麓の南側に位置する''' 美濃市乙狩
'''には、高賀六社(星宮、本宮、新宮、金峰、瀧、高賀神社)めぐりの一つ、瀧神社があります。
この地にも、藤原高光による''' 魔物(猿虎蛇)退治伝説 '''が残っています。
''' 高賀神社に残る「高賀宮記録」より '''
・・・乙狩の社は、高光公の夢に、滝の中から神々が出現して来て、この洞に住み残っている悪魔の使いどもを悉く追い払った洞であるため、洞の奥と入り口に社を建立して乙狩の社と言う。奥の社は水罔象世命、瀬織津比〓命、をご本神とし天暦元年三月十九日遷宮。 この神社を乙狩之神社 号高賀山瀧大明神 と言う。 同所入り口の社は、両皇大神宮をご本神として同日に遷宮。 その名を乙狩之神社 号高賀山神明宮 と言う。
◇ ''' 瀬織津比〓命(瀬織津姫神) せおりつひめ について・・・ '''
あまり聞きなれない神様の名前のようですが、どうも、白山信仰の要とも言うべき神様のようで、祓戸神(はらいど)、災厄を除くことを掌る神とされています。 籠神社の所で書いた、速佐須良比〓命(はやさすらひめ)と同じ難を払う神として崇められています。
高賀山信仰と白山信仰、以前から何らかの関係があるとされてきているのですが、未だに明確な説は示されていないようです。
◇ ''' 瀬織津姫神と白山信仰から考え浮ぶのが、奥州藤原氏です。 '''
なぜかと言うと、かつて藤原秀衡は、奥州の一ノ宮の神、つまり奥州鎮護の最高神として、瀬織津姫神をお祀りし、「瀬織津姫神という神、苦行の因(もと)を救うべし・・・」としている。
そして、藤原氏と言えば、義経が平家を滅ぼした後、頼朝から「義経追討」の命が出て、義経一行が京の都を追われる少し前に、石徹白の白山中居神社へ「虚空蔵菩薩像」を奉納しています。それも家臣団十数名も一緒に石徹白に住み着いたとのこと。・・・これは、白山、その直ぐ南にある高賀山の修験者を上手く取り込み、朝廷や源氏の情報を得るための拠点づくりだったように思えます。・・・この後、源頼朝は「義経をかくまった」との理由をつけ奥州藤原氏追討の命を全国の武士に出し、奥州一帯を制圧してしまいます。
奥州藤原氏の滅亡で、蝦夷の血を受け継ぐ氏族の掃討が、源氏の武力を使って、京の藤原氏により完結した形となった。
瀬織津姫神は、古くは蝦夷、つまり大和政権が出来る前に日本にいた民によって信仰されていた神と理解した方がいいようで、その後、瀬織津姫神の存在は、他に名を変え歴史の中に埋もれていったように思えます。
瀬織津姫神は、古くは蝦夷、つまり大和政権が出来る前に日本にいた民によって信仰されていた神と理解した方がいいようで、その後、瀬織津姫神の存在は、他に名を変え歴史の中に埋もれていったように思えます。
話があちこちに飛んでしまって申し訳ありません。
一地域の、何でもない歴史を探っていると、それが日本史の根幹に係るような所へも関係していることもあるのですね。
○瀧神社のご神木の杉です。
○瀧神社のご神木の杉です。
この''' 瀧 '''が瀧神社の本来の神そのものなのでしょうね。
瀧の前には、''' 瀧権現 '''と彫った石碑がありました。
この場所に立ったら、ひんやりとして、物凄く気持ちが良かったのですが、現代的に言えばマイナスイオンの効果、それともやっぱり、神様のいる神聖な場所なので、そう感じるのでしょうか。
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