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梅泉寺 (2009-2-26 0:29:43)
●梅泉寺境内に残る観音堂
平成の初め頃にはまだ、本堂、庫裏、観音堂があって、無住ではあったのですが当時の寺の隆盛を偲ぶことができました。
この瑞宝山 梅泉寺の建立は寛延二年(1749年)江戸中期に遡ります。
●老山和尚が京都の養徳院に出した手紙「奉願直末證文之事」
興徳寺の老山が京都妙心寺の塔頭である養徳院に出した古文書「奉願直末證文之事」(1749年)が残っています。(興徳寺蔵)
それによると、当時は、寺を自由に建てることは出来なかったようで、
『美濃市大矢田の道樹寺の末寺で貧しく相続できなくなった寺院を末寺から抹消して、父 紋右衛門を弔うため、武藤嘉右衛門と
弟文蔵の兄弟が再興し、興徳寺の老山が開山となって瑞峰山梅泉寺としたので、妙心寺の末寺としてほしい。』
という内容のものでした。弟文蔵の兄弟が再興し、興徳寺の老山が開山となって瑞峰山梅泉寺としたので、妙心寺の末寺としてほしい。』
また、興徳寺の老山が寺社奉行津田兵部から受けた「折り紙」(古文書)が梅泉寺の襖の下張りから発見されていて、その中身は、
''' 「大矢田の道樹寺の末寺皆善庵(かいぜんあん)を抹消して、洞戸に梅泉寺を創建することを許可する」 '''とした内容のものでした。
当時、紙は大変貴重なもので、いらなくなった文書は、捨てずに''' 襖の下張り '''として再利用されていまた。
梅泉寺の庫裏に残されていた、襖の下張りにはこのほか多くの貴重な古文書が発見されています。
寛永二年、8月に老山が上有知代官所へ出した書状、それが、10月には寺社奉行から''' 「折り紙」
'''が老山へ交付され、さらに12月には京都妙心寺より証文が届き、梅泉寺の建立の許可が出たことになっています。
「折り紙」・・・当時の公文書(役人が書いた書状)の事。和紙を横に半分に折って文章を綴ったもの。
寺院建立の申請から許可までの何と早い事!! とても、今で言う''' 「お役所仕事」'''と言って冷やかす事は出来ませんね。
境内近くには、歴代住職と、武藤家の墓石が整然と並んでいます。
武藤家は、洞戸にある興徳寺の再建や、尼寺の円通庵、さらに梅泉寺の鎮守として近くに金毘羅神社までも建立したといわれています。
今では考えられないほどの財力をもった商人が、奥美濃の山間地にも居たのですね。
この寺で、中世臨済禅の名僧と言われる''' 隠山 '''が、梅泉寺二世として住職を務めています。
のちに岐阜市の瑞龍寺をはじめ多くの寺院を再興、さらに文化五年(1808)には''' 光格天皇より紫衣 '''を拝領し、翌年文化六年、京都妙心寺開山の関山和尚 四百五十年法要の導師を務めました。
のちに岐阜市の瑞龍寺をはじめ多くの寺院を再興、さらに文化五年(1808)には''' 光格天皇より紫衣 '''を拝領し、翌年文化六年、京都妙心寺開山の関山和尚 四百五十年法要の導師を務めました。
この梅泉寺は、当時の洞戸の豪商 武藤嘉右衛門 が建立した寺なのですが、平成の時代まで檀家は武藤家一軒のみで、代々引き継がれてきました。
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