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feed 峰稚児神社の伝説 (2008-10-13 18:05:33)

峰稚児神社の伝説


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○山頂の大岩の上に鎮座する峰稚児神社

 醍醐天皇の時代、世は藤原一族の全盛期でその藤原時平が、当時朝廷内で実力を持っていた
菅原道真を疎ましく思い、失脚させるためにある策略を仕掛けた。

 それは、当時美女と評判だった醍醐天皇の后の肖像画を、絵の才能を見込まれていた菅原道真に書かせるよう時平が仕向けた。  それもあろうことか、后の裸体を書かせるよう命じた。

 道真にしてみれば、当然書けるはずもないのだったが、仕方なく面影から想像した絵を書いて天皇に見せた。 その絵には、天皇しか知るはずもない所にあるホクロまでもが書かれていたと、時平が道真に因縁を付けて「不義密通」の罪で道真を大宰府へ左遷してし、后は離縁させられてしまった。

 醍醐天皇は後妻を迎え、後に皇子が誕生。それを知った前の后が、朝廷の反対勢力の居た高賀山一帯の賊に、その皇子をさらわせ高賀山頂の大岩の上で干し殺にしてしまった。

 都では、皇子探しで大騒動。都の丑寅の方角の高賀山付近へさらわれたと知り、藤原高光に皇子を救い出すよう命が下った。

 高光は高賀山付近を捜し、高賀山に居た賊を討伐し、皇子の霊を慰めるために、皇子が殺されたとされる高賀山頂付近の大岩の上に、峰稚児神社を建立したとされています。

  
この伝説は、高賀地区の古老から聞いたお話で、中央大学民俗学研究会が1986年に発刊した「常民」の中にも掲載されています。

この伝説の真意は定かではありませんが、醍醐天皇の皇子は確かに早くに亡くなっているようです。


藤原氏一門が朝廷を掌握する以前の体制と言えば、物部、蘇我両氏の時代であって、大和を追い出された両氏の残党が、修験者となって主に吉野山中で、都に睨みを効かせていたことは知られていることなのですが、高賀山も修験者の修行の山であったことは確なため、都の体制派である藤原一族と相反する勢力が、修験者団の形で高賀山一帯に居たとすると歴史がもっと面白くなりますね。


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○峰稚児神社近くの御坂峠から見る奥美濃中央高原林道(郡上市方面)


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