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feed 矢作神社 (2007-12-3 22:11:18)

鳥居の無い神社・・矢作神社


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''' ◇ 縁 起 '''
 矢作神社は、天暦元(947)年高賀大本宮諸社と同時に創建され、山崎白羽之神社、高賀山矢作大明神と称していた。後に、応安二(1369)年大洪水により流失し以来再建されずにあった。
永享七(1435)年、高賀の若宮の神主山崎権之太夫が初夢で、白羽之神社を再建すべしとのお告げを聞き、菅原谷の地に七月に遷宮した。
創健者である山崎氏の出は菅原氏であることから、菅原谷の地名では恐れおおいと地名を菅谷に改めた。
後に、山崎権之太夫は高賀から菅谷に引越し矢作神社の神主となったとされています。

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◆ 境内にあるモミジ・・・綺麗に色付いています・・
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「高賀宮記録」の中では、「砥河原の辺りに白い鳥の羽根と箭があり、そこで矢を作って高光公に献上せよと、その場所に社を建て高光公持参の矢をご神体として級長戸辺尊、級長津彦尊、八幡大神をご本神として天暦元年九月十日に遷宮。」と記してある。
菅谷地区には昔から「砥石山」と言われる山があって、今でも良質の砥石を採取することができ、当時から、矢を研ぐのに適した砥石があったことを物語っています。
また、当神社には、『大明神庄壇造立永享七年九月十日』の棟札(洞戸地区の神社で現存する最古の棟札)が保管されており、それには、「大旦那山崎守儀□」と記されていて、これは「高賀宮記録」にある、矢作神社を再建した「山崎権之太夫」のこととされています。

※ 矢作神社は、高賀神社との所縁が強く、「縁起」で書いたように、「高賀宮記録」にも当社の縁起が詳細に書かれています。
 高賀山信仰の圏域と、当社がある菅谷地区とは地理的に距離があるようにも思えるのですが、なぜ、高賀にあったはずの神社を菅谷地区に移して再建したのか、その辺りの理由がはっきりしていません。


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◆ 社務所に付いている社紋「並びや」

◇ 御 祭 神

''' ・級長戸辺命(シナトベノミコト) '''
''' ・級長津彦命(シナツヒコノミコト) '''
''' ・菅原道真 '''


 神名の「シナ」は「息が長い」という意味。古代人は、風は神様の息から起きると考えていた。
 そのため風は稲には欠かせないものであるが、台風などの暴風には人に大きな被害を もたらすため、各地で暴風を鎮めるために建立された。
 日本書記では「シナトベ」は女神とされ、他の神社ではシナツヒコの姉、または妻としてお祀りしてあり、本来は男女一対の神であったとされています。
 伊勢神宮には内宮の別宮に風日祈宮(かぜひのみのみや)があり級長戸辺命・級長津彦命をお祀りしている。元寇の時に神風を吹かせたのは、これらの神々であることから、「風日祈宮」の宮号が付けられている。
 御神徳・・五穀豊穣、戦勝祈願、
''' 本殿は一宇に二神お祀りしてあり、向かって左側に「矢作大明神」、右側に「天神」をお祀りしてあります。 ''' 
'''第二次世界大戦時には、戦勝祈願や、軍人さんの守り神としての信仰が広まり、各地から当社へ参拝に来る人が絶えなかったそうです。 '''

''' この神社の一番の特徴は、鳥居がどこにも無いことです。昔から無いようで、地元の古老に聞いてもその理由は解っていません。 '''

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◆ 本殿前の狛犬
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◆ 末社:十社神社
 菅谷地区にあった十の神社を、明治以降に一つのお社に合祀したものです。
{十社神社に合祀された神社}
 宮川神社・丸石神社・山神神社・荒矢神社・笠神神社・熊野神社・大洞神社・藤森神社・天神神社・沓森神社

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この丸石は、本殿の左右に一対あるのですが、詳細は不明のようです。
この石、社殿を作る以前からあったご神体なのでは? と考えますが・・・


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