ほらど未来まちづくり委員会

洞戸地域が住みやすく活力ある地域として永続的に発展するための事業を展開しています。

江戸時代の洞戸村村絵図展示会(H31.2.5~3.1)

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事業概要: 江戸時代後期に作成された洞戸地域の絵図と大正から昭和初期の洞戸中心街の地図を展示し、現在の洞戸を改めて考える機会とする。
実施期間: 平成31年2月5日〜3月1日
担当部会: 事務局

目 次

1.展示会のご案内

2.展示会の様子

3.展示内容

 3.1 江戸時代の洞戸村絵図

     3.1.1洞戸村全体絵図

     3.1.2 各村落の個別絵図

     3.1.3 江戸時代と現在の
             人口比較

     3.1.4 美野国絵図
              (江戸時代後期)

 3.2 大正・昭和初期の
              洞戸中心街図

 

江戸時代の洞戸村村絵図展示会

平成31年2月5日〜3月1日 

洞戸ふれあいセンターロビー

1. 展示会のご案内

「江戸・大正時代の旧洞戸村絵図展」

開催について(ご案内)

 洞戸地域は、平成の大合併によって、失われた物も多く、新しく誕生した物もあり、大きく変貌した平成時代でもありました。

 そこで、岐阜県図書館には洞戸地域の「江戸時代村絵図」が2種類所蔵されていますが、この2つの地図を比較して江戸時代の洞戸の様子を見てみたいと思います。

 展示される、「旧洞戸村村絵図」は天保12年(1841)に作成されたもので、洞戸が1つの村として描かれています。もう一つは、洞戸が自治会単位の村に分村した「村絵図」で、文久2年(1862年)に作成された図14点です。

「村絵図」には、当時の世帯数、人口、馬の頭数、東西南北の長さ、境界の地名等を知ることができます。また、当時の人たちが通行した、道路位置や小字の地名があり、二百年余前と現在とを比較することによって、江戸時代の洞戸の状況を知ることができます。

大正時代の絵図は、洞戸が最も繁栄し、村から町への町制施行の機運が高まった市場・通元寺の絵図をカラー印刷で展示しています。特に、商店名は、屋号となっていますので、商売の内容を知ることによって、当時の洞戸の商業活動を知ることができます。

 

■ 展示期間

 平成31年2月5日~平成31年3月1日

 午前9時~午後5時まで

■ 会  場

 洞戸ふれあいセンター ロビー

■ 休 館 日

 平成31年2月12日(火)・18日(月)・25日(月)

■ 問合せ先  ほらど未来まちづくり委員会

      電  話 0581-58-2115

■ 主  催  ほらど未来まちづくり委員会

 後  援  洞戸歴史研究会   

 

 

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2.展示会の様子

 2月初旬から、早々に洞戸地区の住民の方が来訪され、地図をご覧になられていました。時に、ご覧になっている住民の間で話が盛り上がることもあります。

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3.展示内容

3.1 江戸時代の洞戸村村絵図

2種類の洞戸村絵図について

<はじめに>

 洞戸地域の江戸時代の村絵図が岐阜県図書館には2種類所蔵されている。ここでは、この2種類の村絵図を紹介する。

<近世の村について>

 近世の村は太閤検地によって成立したといえる。太閤検地は、領主が中世のように年貢高だけを把握するのではなく、村域を確定してむらきりを行い、村ごとに検地を行い、反別たんべつをはかり、田畑の等級に応じてその生産高を見積って石高で表示した。この石高制は、百姓が持高に応じて年貢を納める基準であり、また武士が知行をもらい、それに相応する軍役を勤める基準でもあった。その基準によって武士も百姓も階層的上下関係が定められた。

 そして、この石高に領主が定めた年貢率(免)を掛けて年貢量が決まった。年貢を納めるのは検地帳に記載された百姓である。近世領主は中世以来の重層的土地所有関係を認めず、直接に耕作者を掌握しようとした。そのうえで年貢は村を単位として課され、村宛に年貢割付状(免状)、皆済目録(領収書)が交付され、滞納・不納(未進)が生じないよう村として請け負わせた。これを村請制という。

<村絵図とは>

 村絵図とは、江戸時代、村ごとに作られた絵図である。彩色のものが多く、初期は検地帳と共に作成されたり、村明細帳に添えるなど、様々な事情により、領主からの要請で作成された。田畑屋敷、道、川や用水、神社、寺院など村の景観全般を描いている。

<洞戸地域の場合>

 洞戸地域では、太閤検地においては16の小村を村として検地帳が作られた。尾倉村には検地帳が残り、山年貢も高賀村、にがな村(現在の高見)、尾倉村の小村に割り当てられたものが残っている。太閤検地では、小村が村として扱われたのである。

 しかし、江戸時代(1600~1868)においては、洞戸はまず幕府領となり、短期間ではあるが洞戸に代官所が置かれたようである。そのときは洞戸で年貢が集めたられた。その後、元和5年(1619)に尾張藩領になっても、洞戸宛に年貢割付状が来て、洞戸で年貢を集めて納めたようである。洞戸が村として機能したようで、尾張藩では洞戸を村として扱っていた。

 ところが、江戸時代の後半になり、安政4年(1857)からは、年貢割付状が小村宛にくるようになった。16の小村が村として扱われるようになったのである。この分村は、洞戸村の総庄屋の年貢割り付けに対する小村の不満からおこったことである。

 さて、洞戸村村絵図は天保12年(1841)のもので、まだ分村する前のものであり、小村の村絵図は文久2年(1862)に作成されたもので、分村してから作成された村絵図である。この2種類の村絵図は、江戸時代における洞戸地域の村支配の変化の情況を見事に示している。

(文久2年の14枚の村絵図は『洞戸村誌 上巻』の巻末に掲載されている。)

                      洞戸歴史研究会 船戸忠幸

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3.1.1洞戸村全体絵図

この絵図は江戸時代末期の天保12年(1841年)のものです。

左下には 高1,346石8斗7升7合、家数787軒、人数3,949人、宮75社、寺12ヶ所、堂13ヶ所、天保12巳5月 と記載されています。

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3.1.2 各村落の個別絵図

小瀬見

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高見

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阿部

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高賀

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尾倉

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飛瀬

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栗原

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通元寺

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市場

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菅谷

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黒谷

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大野

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小坂

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3.1.3 江戸時代と現在の人口比較

村絵図に記載されている人口を、平成31年の人口と比較してみました。

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3.1.4 美野国絵図(江戸時代後期)

内題〔美野国郡県人跡路程図説〕木版多色刷り、縦横47×64cm更地堂(蔵版)

 この地図は、美野国の国絵図である。「更地堂」という版元が作成したことが分かる。幕府が江戸時代に4回国絵図を作成させているが、それらをもとに民間でも簡易な国絵図が作成され、木版に彫られて印刷され、民間に販売された。

 この図は、多色刷りで、赤(郡名・城郭、街道)、黄(宿駅・方位)、青(河川)、灰色(山)、黒の5色刷であるが、色のない黒色だけのものもある。地図には山や川だけでなく城郭や町村、名所・旧跡など細かく書き込まれ、余白には、美野国のいわれや、各郡別にその歴史や名産などの特色を書いている。その中央部上に、「武儀郡」が次のように書かれている。

「◯武儀郡 △大矢田 喪山コノ地 紅葉可賞 △洲原白山宮 △広見松見寺如大尼水桶ノ月影ニ悟ル秋田城介ノ女也 △和名抄 御手洗、跡部、生櫛、有知、白金、大山、稲巧、菅山、揖可」である。

 村落は小判形の◯で囲んである。洞戸は、近隣では、谷合、天王(今        の高富)と同じように◯が黄色く塗られているので、宿駅に次ぐ街並みのある村として認められていたのであろう。洞戸の地名としては、「カフミ(高見)、甲カ(高賀)、向シマ(迎島)」の三つが書かれている。

 後に、尾張の岡田啓によって改版されて出版された内容がほとんど同じの地図がある。岡田啓は、19世紀(1800年代)中頃に活躍した尾張藩士で、『新撰美濃志』の編纂にかかわった人物である。その断り書きに、「原板錯乱誤字多ク山川村里等ノ方位ノタガヘタルモ少ナカラズ依テ校正ヲ行フトイエ共小図ノ上筆耕及ガタクシテコトゴトク方位ヲ訂スコトアタワズ見ル人コレヲユルセ」と書かれている。地図には村名等が書き加えられており、洞戸では、先の三つの他に、「ヲクラ(尾倉)、クロ谷(黒谷)、門原(紋原)、カ谷(片)、フセ(飛瀬)、栗原、市バ(市場)、カマクラ(鎌倉)、菅谷」が書き加えられている。

洞戸歴史研究会 船戸忠幸

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3.2 大正から昭和初期の洞戸中心街地図

洞戸町並み絵図(明治後半〜大正時代)

 

 この地図は、明治後半から大正にかけての市場・通元寺の町並み絵図である。昭和51(1976)年に始まった『洞戸村史』編纂のため野村茂先生が、古老達から聞いて作成された地図である。地図を見ると、この時期まで板取川が市場のすぐ近くまで流れ、船き場まであったようだ。現在の診療所、洞戸事務所、JA洞戸支店がある場所は川の中で、板取川には、トラス橋と土橋の二つの橋が架かっていた。大正12(1923)年に吊り橋の洞戸橋がかかったときに、トラス橋へ流れる川筋が堤防で締め切られ現在の川筋になった。

 この市場から通元寺にかけての町並みについては、江戸時代寛政年間に尾張藩の武士によって書かれた『濃州徇行記』の中に次のように書かれている。本郷市場村のところに『・・・鎌倉という処より北の方通元寺村までの間町並あり、即ち岐阜はり板取村まで往来する街道なり、町並みは四町ほどの間也、常に岐阜より米雑穀類を著出し、此処にて洞戸、板取谷中の者穀物を小買にする也・・・・・・其外商ひ物、酒、味噌、溜、藍、木綿、布、古手物、瀬戸物、紙、菅笠、農具類、日用の品を販き、また質屋などもありて、谷中の人、日々よりつどひ交易の地なり・・・』とあり、寛政年間(1790年代)にはすでにこの市場と通元は町並みを形成していた。また、正保4(1647)年に「市場」を「町分」といた文書も残っているので、江戸時代の初期までさかのぼることができる。

昭和3(1928)年発行の『岐阜県の大勢』に、洞戸村について、戸数858戸、人口4706人、都市的機能として岐阜区裁判所出張所、関警察部長派出所、銀行支店2、劇場1、旅館2、料理屋4などが書かれている。この地図には、警察、銀行2、旅館2(紙茂、吉野屋)、きちんやど1(亀屋)、宿屋1(市場南部の登記所付近)、料理屋(さくらや)1、支度屋3(ますや、朝日屋、岐阜屋)などが確認できる。岐阜区裁判所出張所は、この地図では「登記所」がこれに当たるようだ。劇場は「千歳座」のことと思われるが、昭和2(1927)年にできている。

 この他、商店として営業している屋号などをみていくと、柿野川より北側には、小坂屋、くつわや(紙原料)、綿彦(みそ・たまり)、入吉(薬局)、澤万(瀬戸物)、松本(乾物屋)、横山(ちようちん)、油鉄、柏豊(雑貨・米・炭)、柏甚(精米)、ますや(支度屋)、かじ兼、泰助(もち・炭)、加藤(かじゃ)、たたみ丈、大黒屋、个豊、おもんさ雑貨屋)、河合直助(指物)などがある。

 柿野川の南側には、すし屋、銭湯、吉田銀行、床屋、米久(呉服店)、林泰一(菓屋)、下駄駒、次郎(大工)、吉野屋館)、吉友(酒店)、白木屋(河合紋吉)、朝日屋(支度屋)、篠田慶太郎(薬局・文具)、江戸屋(薬局・文具)、大寅(雑貨店)、美濃銀行、雲三(菓子店)、二星(雑貨刷、紙茂俿館)、川甚(酒店・青果物)、かじ孫、林多郎吉(質屋)、徳助(運送店)、亀屋(木賃宿)、松田三四郎(桑問屋・あい)、武藤金助(諸や)、立花屋(米・酒・溜まり・雑貨商)、岡部蹄鉄所、士三郎(鳥屋)、ぼて宮(女髪結い)、神山金吾(桶屋)、川捨(米肥料商)、指丈(指物商)、山田吉三郎(鳥屋)、神山久吉(売魚商・とふや)、岐阜屋(支度屋・とふや)、山下卯吉(紙・原料店)、たまりや、長屋藤助(げた屋)、さくらや(料理屋)、床屋、お竹屋(菓子・養蚕道具・土木店)、ドイ山に役場が在り、ずっと南の登記所のあたりに、林松太郎(雑貨店)、宿屋、林又三郎(酒店)、美濃屋(呉服)、林藤作(油屋)などがある。この他、氏名だけの家も何か商売をしていた可能性がある。

洞戸歴史研究会 船戸忠幸

市場地域

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通元寺地域

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 絵地図の他に、大正・昭和初期に撮影されたと思われる村内の写真も展示しています。

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